でない、誰が見ても、直ぐに目だつ程な可笑しいキンチヤク頭であるとか、少くとも当人の前ではそれに関する話は遠慮しなければならない、当人もそれを非常に苦にしてゐるが、絶対的のことだから仕方がない、それ程目だつて普通でない格好だとする、その男は、若し細君がどんな場合にも頭の格好についての話をすると、それだけには大変敏感に己れを感じて、突然、怖ろしく不気嫌になる――さういふ種類の、気の毒な滑稽感を抱いて我慢した。それに類する、哀れむべき不具な一個が彼の性質の何処かに一つ凸出してゐるに相違ない――そんな想像を回らせてゞもゐないと彼女は、我慢することが出来なかつた。
「余外なことを云ふなよ、出しやばり!」
彼女が、思つた通り彼は、憤つた口の利き方をした。――Nは、一寸困つて、
「夏、ヲダハラへは帰らないの?」と彼女に訊ねた。
「どうするんだらう。」
彼女は、厭に気むづかしさうな振る舞ひをする彼に、ヒステリツクな反抗を覚えてゐた。……(何でもないときに、折角皆なが、おだやかな心になつてゐるときに、直ぐに何とか難癖をつけたがる、……あれが嫌ひだ、ほんたうに嫌ひだ。)と思ふと、此方こそ無暗に肚がたつて堪らなかつた。そして自分に対するいろいろな彼の不信実を探し索めたりしはじめた。
彼は、ふくれた顔をして凝つと膝を抱へて空を見あげてゐた。その様子を眺めると、
「チエツ!」と舌を鳴して彼女は、ほき出したい程だつた。――だが彼女は、いつもの癖で冷かに相手の姿を眺めはじめると、溶けるやうに憤懣が消えて、ふつと笑ひ出しさうにもなつた。彼女には、さういふ不遜な癖があつた。自分の悪口を云つたり、自分が一生懸命でした仕事に難癖をつけたり、此方が何の邪念もない言葉を皮肉にからかはれたり、愚劣な冷罵を与へたり、軽蔑的な批評を浴せたりする人に出遇ふと(それらのことを彼女は、彼とその母から最も多く経験した。)涙の出る程口惜しいのであるが、それを凝ツと怺へて、それらの人の姿を静かに好意なく想ひ浮べてゐると、とんでもないところに心が走つて、と何かしらその人の異常な個所を発見する――あの人は、ものを云ふ毎に歯ぐきが全部露はれて、それが紫色だ、とか、あの人は、自分では大変な美人のつもりでゐるが、いつも眼眦に目ヤニがたまつてゐる、トラホームぢやないのかしら? それに始終反ツ歯をかくさうとして、モグモグと唇ばかりを動かせたり、用もないのに手の甲で口をおさへる、とか、あの人の旦那さんは、うち[#「うち」に傍点]に向つて自分のことをあんな風に冷笑したさうだが、あの人の頭は、テツペンが槌で叩いたやうに平らで、加けに後頭は金槌のやうに突き出てゐる、あんな格好の頭から正当な批評が出る筈はない、それにしてもあの人は帽子を買ふときには随分苦労することだらうな! とか、またあの人は、とても酷いワキガで、いつか自分が初めて対談した時に、あまりのことに如何しても我慢しきれず思はず横を向いて、それとなく袖の下に鼻を覆つたところが、自分のそれをあの人は承知してゐて且つ恥ぢてゐると見えて、直ぐに此方の動作を悟つて、それ以来何となくよそ/\しくなつたかと思つたら、成る程ね、蔭ではそんなに自分の悪口を云つてゐるのかな、へえ……などゝいふ風に、途方もない人身評に想ひをはせてゐると、いつの間にか、身を粉にしても反向つてやりたかつた程の敵意が、奇妙に何処かへ飛んで行つてしまふのであつた。
現に彼女は、彼の母と同居してゐた頃、母から意地悪るをされて大変口惜しがつて、それがもとで蔭で彼と争ひをした時などは、終ひに、
「何アんだ、ワキガ!」と、彼の母のことを冷罵し返して、勝手に噴き出したりしたことがあつた。だが彼女は、相手が多少でも自分に好意を見せると、空々しい程の好意の返礼を胸に抱いて凡てを美化して考へる、人懐こい弱味を持つてゐた。
その種の彼女の独り想ひや独言癖は、彼と同居するやうになつて以来、何も彼が彼女のことに取り合はないためか、時々奇妙な意地悪るを施されるのに怖れをなしてか、一層内にひどくなつてゐた。彼は、夜など彼女と襖を隔てた部屋に坐して、縫物などをしてゐる彼女が何か口のうちでぶつぶつと小言を呟いでゐるのを聞いて、わけもなく竦然とするやうなことに屡々出遇つた。
「煩いなア!」
そんな時彼は、大声を挙げて怒鳴つた。と、彼女も吃驚りしたやうに、
「アラ、聞えたの?」と、云つてうつかりしてゐる時があつた。そして、また暫くたつと忘れたやうに、ブツブツと始まつた。
「頼りない夫を持つてゐるために、浅はかにもあんな孤独病に陥つたのかな……」
或る時には彼女が、彼に関する不遜な独言を呟いてゐるのにも気づかず彼は、そんな風に聖者ぶつた感想を浮べたりした。
「…………」
彼は、気を取りなした彼女が、何か話しかけたが相変らず黙つて反ツ方を睨めてゐた。変な奴だなア!
彼女は、その様子を眺めてそんな滑稽感を覚えて清々としてしまつた。そして、Nを相手に嬉々と話をはじめた。
「N――ちやんは、何処かへ行くの?」
「来月になつたら、友達と一緒に房州の方へ行く筈になつてゐる。」
「ほう、羨ましいわねえ! あんたは、泳ぎが随分巧いんだつてね。」
「あゝ。」
「教はりたいわ。」
「八月中あつちへ行つてゐるから、その間に来ない。」と、Nは誘つた。
「行きたいなア!」
彼女は、そつと呟いた。
彼女の想像以上に彼は、三十歳の男としては全く不釣り合ひな生真面目に、常々から泳ぎの出来ないことを苦にしてゐるのであつた。海辺に育つたゝめか彼は、幼少の頃から、それが不得意であるといふことに、己れさへ可笑しくなる程に熱心な、情けない恥を持つてゐた。どうしても泳ぐ術の出来ない水夫の煩悶にも似てゐた。彼が、嘗て書いたことのある或る小説は、そんな憧れの心のみで全篇が埋つてゐるものさへあつた。
技が拙いのも勿論だつたが彼は、バカに海に臆病だつた。そこは荒海で、未熟な水泳者には危険な海だつた。彼は、家人から海へ行くことを厳禁されてゐた。でも土地の中学に入つた初めは、家人にかくれて時々海へ出かけた。一年生時分には、普通より体が小さくて心もそれに順当してゐたから、渚だけで勇ましく砂遊びをしたり、手足を底につけて泳ぎの真似をしてゐるだけでも相当に愉快で、恥も覚えなかつたのであるが、翌年になるともう誘はれても行く気がしなくなつた。友達は、忽ちのうちに上達して、俺はもう汽船の着く処までは平気で往復出来るやうになつた、などゝ楽し気に語り合つては、秘かに彼を憂鬱にさせた。誘はれると彼は、今日は頭が痛いとか、用事があるからとかとあらぬ口実を造つて断つた。毎年夏になると、学校では水泳練習団を組織して遠方の危険のない海辺に合宿する定めがあつた。彼は、毎年それに加つて出かけたが、いつも途中で、合宿生活が厭になつたり、あまり熱心な練習生達に反感を持つたりして、一週間も我慢せずに帰宅して了ふのであつた。帰れば、吾家はやはり海辺にあるのだ。そして友達は、皆な海辺の選手で、遊び仲間などは一人もなくて彼は、因循に夏を過すのが常だつた。彼は、口惜しさのあまり座敷に転がつて、教則本を頼りに水泳の練習をしたり、庭先きの小さな池にタラヒを浮べて憧れを満足させた。たしか、四年生の夏までタラヒ舟に乗つた。……あの青海原を悠々と泳げ廻れたらどんなに愉快なことだらう! 来年こそは屹度上達して、彼等の仲間に加はらなければ措かないぞ! 斯んなことを熱心に想つた。そのために彼は、或る年の冬などは、家人に病気と偽つて、伊豆の方の温泉で、游泳が出来る程の浴場のある処に滞在したこともあつた。勿論、悉く水泡に帰したことは云ふまでもない。
毎年、夏になると同じ憧れを繰り反し、同じ悲しみを味ひ、その熱心さには何の変ることもなく、いつか彼は三十歳の夏を迎へてゐたのである。
「A――にゐた時分……」と、彼女は、以前彼の故郷でない辺鄙な海村に彼と陋居した頃の夏の海の話に移らうとしたが、そこではまた彼のことを挟まなければならないことに気づいて、一寸どぎまぎしながら、一言、
「あそこの海は、おだやかで好かつたわよ。」などゝ話を反らせて、其処に居た頃も彼は、口では水泳に関した様々なことを吹聴しながら、一遍も人の見るところでは泳がなかつたことなどを思ひ出した。
「そりやア、房州の方が好いさ。」
Nが、彼女にさう云つた時彼は、突然妙に熱心な眼を向けて、
「ほんたうに好いか、遠浅か?」と訊ねた。
「うむ。」
「何れ位ゐ?」
「さア、それは解らないが。」
「可成り遠くの方まで行つても丈が立つか?」
「立つよ。」と、Nは訝し気に点頭《うなづ》いた。
「賑やかゝ?」
「そりやア、もう!」
「行きたいなア!」
彼女は、頓狂に独言した。
「ほんたうにお出でよ、男で泳げない奴なんては来てゐないが、女は随分多いからね。」
Nが、あまり無造作に云ひ放つので彼女は、ヒヤリとしたが、また擽られるやうな切なさも覚えた。――「あたしだつて、一町位ゐなら泳げるのよ。」
「それぢやア、もう……。行かうよ。」
「でも――」と、彼女は云ひかけて、いつの間にか横を向いて、まつたく別のことでも考へてゐるといふ風に白々しくムツとしてゐる彼を、眼でNに示した。
「嫌ひなの?」と、Nは囁いた。飽くまでも彼の心境に気づかないNの朗らかな調子が更に彼女の苦笑を強めた。何と答へて好いか? 彼女は、わからなかつた。
暫くたつて彼は、
「俺は、山が好きだ。独りで何処かの山へ行かうかな。」と、はつきり呟いてゐた。その態度は、彼女の徒らな臆惻を不安にも、裏切つた程の自信に充ちてゐた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
洗面の流しの下が、ぬかるみになるので彼は、家主のところから鍬をかりて来て棄て水のハケ道をつくつてゐた。
「何アんだ、斯んなところか。」
安堵して叫んだ時の溜息に似た声を背後に感じたので彼が腰を伸して振り反つて見ると、藤井の弟の良介が笑ひながら立つてゐた。藤井とは彼の故郷の古い友達である。
彼は、嬉しさうに良介を眺めて、暫く会はなかつた友達が偶然出遇つた時に取り交す親し気な素振りを現した。そんな時には彼等は、割合にあたり前の口を利いた、それより他に手だてを知らないといふ風に――。良介と会つたのは二年越しだつた。
「休み?」
「この頃は、お盆の休みなんてありやアしないよ。」
良介は、気拙さうに笑つた。良介は横浜で何某の店に務めてゐた。
「兄貴にこの間会つたよ。」
「さう。――」
「この頃ヲダハラへ帰るか?」
「さつぱり。――」
それから一過間ばかり経つて彼の弟の中学三年生の次郎が、日本アルプス登山の帰りがけだと云つて、登山袋を背おひ、登山杖を曳いて来た。国分寺で、友達と別れて此方に立ち寄つたのだと云つた。
「兄さんとの約束なんて待つてゐたひには、つまり行き損ふといふことなんだからね。」
「さう、さう、そんな約束もしたことがあつたつけね。」と、彼女は云つた。
「五六年も前から……」
次郎は、袋の中から絵葉書などを取り出して僅かな見聞を披瀝した。
彼は、そんな話よりも、宿屋に泊る場合には、どんな風にして入つて行くのか? いきなりツカツカと入つて行つて物をも云はずに玄関に突ツ立てば、それでもう泊り客といふことは通ずるのか? そんな風にしても向方でウロンな顔つきをしはしまいか? 泊り方には上等・下等といふ風な区別があるのか? 若しも下等に泊ると間の悪い思ひをするんぢやないか、いくら学生でも二三人伴れでは? 宿料はどんな風にして支払つたのか? 友達同志だと反つて各々の勘定をいちいち各々で支払ふのは変に具合が悪いだらう? 誰かゞ纏めて支払つて後から当人に返済するやうにしたのか? それも何だかお互ひにキマリが悪いだらう? それともお前達はそんなことは平気なのか? 宿屋に着いて飯を食つてしまふと直ぐに寝てしまふのか? ではどんな話を主にするのか? 女中に用事を命ずる場合だつて吾家のそれとは余程要領が違ふだらう? お前なんかでもテイツプをやつた
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