が相変らず黙つて反ツ方を睨めてゐた。変な奴だなア!
 彼女は、その様子を眺めてそんな滑稽感を覚えて清々としてしまつた。そして、Nを相手に嬉々と話をはじめた。
「N――ちやんは、何処かへ行くの?」
「来月になつたら、友達と一緒に房州の方へ行く筈になつてゐる。」
「ほう、羨ましいわねえ! あんたは、泳ぎが随分巧いんだつてね。」
「あゝ。」
「教はりたいわ。」
「八月中あつちへ行つてゐるから、その間に来ない。」と、Nは誘つた。
「行きたいなア!」
 彼女は、そつと呟いた。
 彼女の想像以上に彼は、三十歳の男としては全く不釣り合ひな生真面目に、常々から泳ぎの出来ないことを苦にしてゐるのであつた。海辺に育つたゝめか彼は、幼少の頃から、それが不得意であるといふことに、己れさへ可笑しくなる程に熱心な、情けない恥を持つてゐた。どうしても泳ぐ術の出来ない水夫の煩悶にも似てゐた。彼が、嘗て書いたことのある或る小説は、そんな憧れの心のみで全篇が埋つてゐるものさへあつた。
 技が拙いのも勿論だつたが彼は、バカに海に臆病だつた。そこは荒海で、未熟な水泳者には危険な海だつた。彼は、家人から海へ行くことを厳禁されて
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