を云つてるわ。浅いところがあるんで、恰度好いんぢやないの、あなたはよ。……ヲダハラの海なんかでは、何ンにも泳げないのよ、そこで育つたくせにして。」
 何時《いつ》か、そこの海辺で彼が海水浴をしてゐるところを見たんだが、普段達人のやうなことばかり吹聴してゐるので、どんなに巧いのかと思つてゐたところが、その彼の臆病な格好と云つたらなかつた、少しも波の向ふには泳ぎ出ることは出来ないで、波元のところでちよこ/\と行つたり来たりしてゐたところは、恰で波と鬼ごつこをしてゐるやうだつた、あれぢや、泳ぎに誘はれても一処に行くのは厭がるのも無理はあるまい――。
 彼女は、そんなやうなことを云ひ続けようとしたが、いつかもほんの冗談のつもりでそんなことを云つたら、そのために何も彼を軽蔑する程の気なんてある筈もなかつたのに、如何いふわけか彼は、まるで全人格を軽蔑されでもしたかのやうにムツとした表情をするので、今も一寸その気はひを感じたので危ふく彼女は、云はうとした言葉を呑み込んでしまつた。それに彼は、彼女の口から、悪意、好意の別なく、どんな種類のことであらうとも他の人に向つて彼女が、彼の性質や生活に関する片鱗を伝へでもすると、その瞬間まで笑つてゐた彼の顔つきが忽ちエンマに変ることを彼女は屡々経験した。機嫌を損じるばかりでなく稍ともすれば、傍観者の有無にかゝはらず、突然拳骨を飛ばして唖然とさせられることがあつた。……尤も彼女の経験に依ると、傍観者の種類によつて彼の態度にはいくつか種別があるらしかつた。どうも、彼女には、彼の疳癪なるものが一種のイカモノに思はれてならなかつた、一見熱情的にも見ゆるが、ひるがへつて思ふと極めて非熱情的な表裏が彼の動作を裏づけてゐるらしく、さう思ふと却つて此方がジリ/\する程な厭悪を覚えずには居られなかつた。で彼女は、単純な彼の喜怒の感情を洞察しきつたつもりで、多くの場合己れを圧へたが、時とすると彼は、折角彼女が我慢してゐれば、
「何となく、その洒々としてゐる顔が気に喰はない。」とか、
「それで俺を馬鹿にしてゐるんだらう。」などゝ、コセコセした邪推を回らせて、因循な肚を立てることすらあつた。
「何とか云へ。」
 云へば一層肚たつくせに、そんな風に詰めよせることすらあつた。そんな場合には彼女は、斯んなことを想つて辛抱した。――例へば、頭の格好が(頭には限らない。)普通でない、誰が見ても、直ぐに目だつ程な可笑しいキンチヤク頭であるとか、少くとも当人の前ではそれに関する話は遠慮しなければならない、当人もそれを非常に苦にしてゐるが、絶対的のことだから仕方がない、それ程目だつて普通でない格好だとする、その男は、若し細君がどんな場合にも頭の格好についての話をすると、それだけには大変敏感に己れを感じて、突然、怖ろしく不気嫌になる――さういふ種類の、気の毒な滑稽感を抱いて我慢した。それに類する、哀れむべき不具な一個が彼の性質の何処かに一つ凸出してゐるに相違ない――そんな想像を回らせてゞもゐないと彼女は、我慢することが出来なかつた。
「余外なことを云ふなよ、出しやばり!」
 彼女が、思つた通り彼は、憤つた口の利き方をした。――Nは、一寸困つて、
「夏、ヲダハラへは帰らないの?」と彼女に訊ねた。
「どうするんだらう。」
 彼女は、厭に気むづかしさうな振る舞ひをする彼に、ヒステリツクな反抗を覚えてゐた。……(何でもないときに、折角皆なが、おだやかな心になつてゐるときに、直ぐに何とか難癖をつけたがる、……あれが嫌ひだ、ほんたうに嫌ひだ。)と思ふと、此方こそ無暗に肚がたつて堪らなかつた。そして自分に対するいろいろな彼の不信実を探し索めたりしはじめた。
 彼は、ふくれた顔をして凝つと膝を抱へて空を見あげてゐた。その様子を眺めると、
「チエツ!」と舌を鳴して彼女は、ほき出したい程だつた。――だが彼女は、いつもの癖で冷かに相手の姿を眺めはじめると、溶けるやうに憤懣が消えて、ふつと笑ひ出しさうにもなつた。彼女には、さういふ不遜な癖があつた。自分の悪口を云つたり、自分が一生懸命でした仕事に難癖をつけたり、此方が何の邪念もない言葉を皮肉にからかはれたり、愚劣な冷罵を与へたり、軽蔑的な批評を浴せたりする人に出遇ふと(それらのことを彼女は、彼とその母から最も多く経験した。)涙の出る程口惜しいのであるが、それを凝ツと怺へて、それらの人の姿を静かに好意なく想ひ浮べてゐると、とんでもないところに心が走つて、と何かしらその人の異常な個所を発見する――あの人は、ものを云ふ毎に歯ぐきが全部露はれて、それが紫色だ、とか、あの人は、自分では大変な美人のつもりでゐるが、いつも眼眦に目ヤニがたまつてゐる、トラホームぢやないのかしら? それに始終反ツ歯をかくさうとして、モグモグと唇ばかりを
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