動かせたり、用もないのに手の甲で口をおさへる、とか、あの人の旦那さんは、うち[#「うち」に傍点]に向つて自分のことをあんな風に冷笑したさうだが、あの人の頭は、テツペンが槌で叩いたやうに平らで、加けに後頭は金槌のやうに突き出てゐる、あんな格好の頭から正当な批評が出る筈はない、それにしてもあの人は帽子を買ふときには随分苦労することだらうな! とか、またあの人は、とても酷いワキガで、いつか自分が初めて対談した時に、あまりのことに如何しても我慢しきれず思はず横を向いて、それとなく袖の下に鼻を覆つたところが、自分のそれをあの人は承知してゐて且つ恥ぢてゐると見えて、直ぐに此方の動作を悟つて、それ以来何となくよそ/\しくなつたかと思つたら、成る程ね、蔭ではそんなに自分の悪口を云つてゐるのかな、へえ……などゝいふ風に、途方もない人身評に想ひをはせてゐると、いつの間にか、身を粉にしても反向つてやりたかつた程の敵意が、奇妙に何処かへ飛んで行つてしまふのであつた。
 現に彼女は、彼の母と同居してゐた頃、母から意地悪るをされて大変口惜しがつて、それがもとで蔭で彼と争ひをした時などは、終ひに、
「何アんだ、ワキガ!」と、彼の母のことを冷罵し返して、勝手に噴き出したりしたことがあつた。だが彼女は、相手が多少でも自分に好意を見せると、空々しい程の好意の返礼を胸に抱いて凡てを美化して考へる、人懐こい弱味を持つてゐた。
 その種の彼女の独り想ひや独言癖は、彼と同居するやうになつて以来、何も彼が彼女のことに取り合はないためか、時々奇妙な意地悪るを施されるのに怖れをなしてか、一層内にひどくなつてゐた。彼は、夜など彼女と襖を隔てた部屋に坐して、縫物などをしてゐる彼女が何か口のうちでぶつぶつと小言を呟いでゐるのを聞いて、わけもなく竦然とするやうなことに屡々出遇つた。
「煩いなア!」
 そんな時彼は、大声を挙げて怒鳴つた。と、彼女も吃驚りしたやうに、
「アラ、聞えたの?」と、云つてうつかりしてゐる時があつた。そして、また暫くたつと忘れたやうに、ブツブツと始まつた。
「頼りない夫を持つてゐるために、浅はかにもあんな孤独病に陥つたのかな……」
 或る時には彼女が、彼に関する不遜な独言を呟いてゐるのにも気づかず彼は、そんな風に聖者ぶつた感想を浮べたりした。
「…………」
 彼は、気を取りなした彼女が、何か話しかけたが相変らず黙つて反ツ方を睨めてゐた。変な奴だなア!
 彼女は、その様子を眺めてそんな滑稽感を覚えて清々としてしまつた。そして、Nを相手に嬉々と話をはじめた。
「N――ちやんは、何処かへ行くの?」
「来月になつたら、友達と一緒に房州の方へ行く筈になつてゐる。」
「ほう、羨ましいわねえ! あんたは、泳ぎが随分巧いんだつてね。」
「あゝ。」
「教はりたいわ。」
「八月中あつちへ行つてゐるから、その間に来ない。」と、Nは誘つた。
「行きたいなア!」
 彼女は、そつと呟いた。
 彼女の想像以上に彼は、三十歳の男としては全く不釣り合ひな生真面目に、常々から泳ぎの出来ないことを苦にしてゐるのであつた。海辺に育つたゝめか彼は、幼少の頃から、それが不得意であるといふことに、己れさへ可笑しくなる程に熱心な、情けない恥を持つてゐた。どうしても泳ぐ術の出来ない水夫の煩悶にも似てゐた。彼が、嘗て書いたことのある或る小説は、そんな憧れの心のみで全篇が埋つてゐるものさへあつた。
 技が拙いのも勿論だつたが彼は、バカに海に臆病だつた。そこは荒海で、未熟な水泳者には危険な海だつた。彼は、家人から海へ行くことを厳禁されてゐた。でも土地の中学に入つた初めは、家人にかくれて時々海へ出かけた。一年生時分には、普通より体が小さくて心もそれに順当してゐたから、渚だけで勇ましく砂遊びをしたり、手足を底につけて泳ぎの真似をしてゐるだけでも相当に愉快で、恥も覚えなかつたのであるが、翌年になるともう誘はれても行く気がしなくなつた。友達は、忽ちのうちに上達して、俺はもう汽船の着く処までは平気で往復出来るやうになつた、などゝ楽し気に語り合つては、秘かに彼を憂鬱にさせた。誘はれると彼は、今日は頭が痛いとか、用事があるからとかとあらぬ口実を造つて断つた。毎年夏になると、学校では水泳練習団を組織して遠方の危険のない海辺に合宿する定めがあつた。彼は、毎年それに加つて出かけたが、いつも途中で、合宿生活が厭になつたり、あまり熱心な練習生達に反感を持つたりして、一週間も我慢せずに帰宅して了ふのであつた。帰れば、吾家はやはり海辺にあるのだ。そして友達は、皆な海辺の選手で、遊び仲間などは一人もなくて彼は、因循に夏を過すのが常だつた。彼は、口惜しさのあまり座敷に転がつて、教則本を頼りに水泳の練習をしたり、庭先きの小さな池にタラヒを浮べて憧れを
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