は達磨のやうに眼を凝し腕を組んで静止してゐるのであるが、この苦しみの内容には、中途に、大きな鈍い、安易の穴が、楽に筒抜けてゐるのだ。
「で、なかつたら堪るものか……」
彼は、無意味な不平でも洩すやうに独りでそんなことを呟いた。――「可笑しな苦しみだな、何といふ間の抜けた、ぼんくらな苦悶であることか! 毎日、毎日、毎日!」
[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]
彼が、そのやうに毎朝うがひの折に発する醜い叫声は騒々しく四隣に鳴り渡つた。
夏になつてゐた。間もなく何かの病気にでもなりはしまいか? と、疑れる程彼の日々の叫声は激しくなつてゐた。
朝寝坊の彼が、うがひを始める時刻には、七月初旬の青磁色に晴れ渡つた空からは水々しい光りが、さんさんと降り灑いでゐた。――どうして、あんな痩ツぽちの体から、あんなに騒々しく野蛮な音声が出るものか? と、屡々傍の者は、半ばからかふやうに疑ひの眼を見張つた。
「表現派の芝居の、喧嘩の科白のやうだ。」
彼の知り合ひのハイカラ中学生のNは、得意気にそんな形容を放つて、彼の顔を顰めさせた。だが彼は、ふざけてそんな時の癖で何かの声色でも真似るらしく重々しい調子で、
「水の精ニツケルマンの独り言のやうだらう――ブレツケツケツ、ケツクス!」
「そんなものは知らないよ。」
「では――」と、彼は云つた。「チエツ! チエツ!」
「…………」
「いや、疳癪を起したんぢやないがね……」
「起したつて怖くはないよ。ブレツケツケツ、何とか位ゐ!」
「チヨツ!」と、彼は舌を鳴した。
「出たら目のジヤツズ・バンド。」
「チヨツ、チヨツ、馬鹿ア」
彼は、変な形容でからかはれるのが厭だ、といふ風にふざけた苦い顔をして、胸をさすりながら
「あゝ、これで一先づ清々としたんだ。」と云つた。そして、しさいらしく首をかしげて
「チヨツ、チヨツ! チヨツといふ小言を、英語では、Tut, Tut, Tut! と書くんだつたかね、たしか。……フツ、ものは聞きやうで何とでも云へるものさ、何とでも喩へられるものか……」などゝ呟いた。
「何アんだ! そんな変梃なことを考へてゐたのか、つまらない。僕ア、また……」
「そこでN、一寸軽い疳癪を起してさ、チヨツ! と、舌を鳴らして見ないか。Tut! とも響くかどうか、或ひはまた、チヨツ! や Tut! よりも一層適切な感投詞を俺が発見するかも知れない、俺は、しさいな研究をして見たいんだから――」
「馬鹿にしてゐらア!」
Nは、生意気な中学生らしくして歯切れよく笑つた。――「清々としたんなら、早く御飯を済してしまひなさいよ。」
彼は、徐ろに胸を拡げて深呼吸をした。
Nは、さつきから彼の傍に腰を降ろして、その洗面の終るのを待つてゐたのだ。
「何分位ゐそれをやらないと落ち着かないのさ?」と、Nは、何となくワザとらしく見えてならない彼の深呼吸を懸念した。
「さうだなア? どうしても二十分位ゐは続けなければなるまい。」
深呼吸などは、滅多に行つたことはないにもかゝはらず彼は、そんなことを云つた。
「あゝ、面倒臭いなア!」
Nは、さう云つて口笛を吹きながら、爪先きで地面を蹴つてゐた。彼は、
深呼吸といふやつは、これア仲々具合が好さゝうだな、これから毎朝行つてやらうかな! などゝ思ひながら、空を仰いで深重にフーフーと呼吸してゐた。
「今日こそは、泳ぎに行つて見ようね。僕は、そのつもりなんだぜ……あゝ、猛烈に暑くなつてきたぞ。」
「いざとなると俺は、厭になるんでね。」
「運動しないと毒だぜ。」
「生意気なことを云ふねえ。」
彼は、さう云つてNの首たまを握つた。Nは、一寸赧くなつて舌を出した。彼は、手持ちぶさたを紛らすためにNの喉をギユツと絞めたりした。Nは、彼の腕を頤でおしかへしながら、
「割合に力があるね。」と云つた。
「そりやアあるともさ――ボキシングが如何《どう》だ斯うだなんて講釈するが、俺だつてNなんてには負けやしないぞ。」
「チエツ……」と、Nは笑つて相手にしなかつた。そして、Nは、突然、更に別な調子の笑ひ声を新しく挙げて、
「アツ! とう/\チエツ! と云つてしまつた。しまつたな。」
「アツと、俺もうつかりしてゐた。」などゝ彼は叫んだ。そして、二人はさもさも可笑しさうに声を合せてゲラゲラと笑つた。
「未だなの?」
内から彼の細君が、声をかけた。「もう十一時になるわよ。」
「ぢや僕も一処に飯を食はう。僕は、もうお午だ。――そして、ほんとうに今日こそは、直ぐに泳ぎに行かうよ。」
「あんな溜り水みたいなところで泳ぐのは僕は、実は御免なんだよ。」
「また、負け惜しみが始まつた。」
「ほんたうよ。」と、細君もNに合せて、Nとはまつたく別な立場で憎くさうに云つた。「溜り水だ、なんて偉さうなこと
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