りするのか? などゝ云ふ質問を発した。次郎は、悉く一笑に附するばかりだつたが彼は、未だ一度も旅に出て自ら先に立つて旅宿をとつた経験がなかつたので、その中のいくつは好く訊いて置きたかつたのである。そして彼は、東京では、これも未だ単独では一度も遊里へ脚を向けたことがなく、近頃それを単独で行ふて見たい、と時々強く思ふので、つい此間今と同じやうな質問を熱心に或る友達に放つて、終ひには、ワザとらしい厭味な奴だ! などゝ云はれて、困つてしまつたことなどを思ひ出した。
 また彼は、次郎に向つて、母から旅費を幾ら位ゐ貰つたのか? 若し、あまつてゐるなら少しでもいゝから置いて行かないか? などゝいふことを真面目に申し出て、次郎と彼女の顔を赧くさせ、ふと自分も赧くなつたりした。
「次郎が出かけてゐると、吾家では阿母さん独りぎりになるわけだね、この頃ぢア!」
「きまつてゐるぢやないか、さ!」
「この頃ぢやア、お前《メエ》が友達と一処になんて泊りがけで、ヨウ、旅になんか出かけても、いや、好く出かけさせるんだアなア! 阿母さんは、平気なのけえ[#「けえ」に傍点]? ……俺アの時分ぢや、自分がいくら出かけべえと思つても、とても友達同志の仲間にヤア入れさせなかつたもんだがよう?」と、彼は、今ではその辺でも廃れてゐる故郷の町に隣接する農村地方の野語を拙く真似て用ひた。彼は、酒に酔つてはゐなかつたのであるが、ふと母のことが口に出たら、何だか心に異様に重苦しく寂しい蟠りが生じて、自然な会話を放つことが六ツかしかつたのである。で、なければ陰鬱な顔をして不快な沈黙に陥入るより他はなかつた。己れの心の蟠りを相手に感ぜしめぬ為に、反動的にふざけ過ぎて反つて相手に不快を与へるやうな失敗を往々彼は、繰り反す癖があつたが、これもその種の戯れでもあり、また別に、何といふ原因もなく或る種の親しい友達の間などでもテレ臭さを紛らす為に、二人だけで通用する異様な会話を、初めは戯れに用ひたのが何時の間にか癖になつてしまつた如く、時々彼が弟に執る無意味な遊戯でゝもあつた。――彼等は、十四五年の間がある二人だけの兄弟だつた。
 彼が、今もつて旅行癖のないのは、一つは幼時祖父母や母に依つて極めて保守的な教育を施された影響でゝもあるが、母が或る老境に入つたが為に次郎を急に放任しはじめたのだ――とは、彼には思へなかつた。毎年次郎は、母と二人で相当に長期の旅行をするのが常だつたが(彼にはそんな経験はなかつたが)、そして彼は当時の父のことに対照して母の佗しさに同情したのであるが、父の亡いこの頃はその種の感情が如何しても起らないのが彼は、悲しかつた。……次郎が留守だと思ふと彼は、嘗て経験したことのない種類の、まつたく彼にとつては新しく驚くべき種類の嫉妬を、母に感じた。――以下の数言は省く。
 彼は、昔から一人旅を一度も行つたことがなく今に至つてゐる。幼時の稀の家族伴れの遠足は思ひ出してもさつぱり面白くなく、何の憧れも起さなかつたし、中学を出る頃には、出かけないことが身に沁みてゐたから、出かけることを面倒に思ひ始めてゐたし、間もなく近所の娘と恋を語り始めてゐたので、そんな間もなかつたのであるが、そして、その後も旅を想ふ余裕なく因循に暮して来たのであるが、この頃になつて、何となく一人の旅でもして見たい程な心に時々かられた。
「好く出かけさせたもんだなア?」
「だつてもう大丈夫ぢやないか。夏のうちには、また何処かへ出かけるつもりだよ。」と次郎は、誇り気に云ひ放つた。
「さうかのう!」
 彼は、今までの続きの戯れの調子で次郎に点頭きを示したが、心は、母に想ひを馳せてゐて、同じ言葉で、母の態度を斯う肯定したのである。さうかのう[#「さうかのう」に傍点]! といふ言葉は、矢張り彼の地方の農民が、思ひ設けないことを聞いて驚嘆しながら沁々と感心する場合に放つ肯定の言葉で、何処にもアクセントがなくのう[#「のう」に傍点]の余韻を非常に長く引きながら喉から胸へ流すのである。彼は、その通りに発音と身振りを摸して点頭いたのである。次郎達は、彼がいつまでもおどけた口調を用ひてゐるので、反つて冷汗を強ひられるやうに笑つた。
「次郎は、いつ帰るのよ、あしたか?」
「四五日、遊んで行かうかと思つてゐる。」
「早く帰れよ、えゝ、早く帰れよ、旅の帰りがけなどに寄り道をしてゐるなんといふことは好くないことだ。」
 それ位ゐでも彼が修身的のことを云つたのは珍らしいことなので次郎は、彼が未だふざけてゐるのか? といふやうな顔をしてゐたが、幾度も彼は同じことを繰り反すので、終ひには妙に白けた笑ひを浮べてしまつた。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 或る晩彼は、良介に、
「君の方も夏休みか?」と訊ねた。良介が来てからもう一ト月も過ぎた。
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