「止められてしまつたんだよ。」
良介は、頭を掻いて笑つた。それぎり彼等は、それに関する話は取り交さなかつた。いつの間にか良介にも、彼のあの朝の「ゲーゲー」が伝染してゐた。毎朝彼等は、交互に喧ましい手水を使つた。
「あゝ苦い/\。」
「向ひ側の家が空いたから、あつちへ移らうぢやないか、あそこなら外から見えないで好い、縁側の前が森であることも好い。」
「僕がひとつ、作りつけの流しを造つてやらう、土管をいけて水はけを作らうよ。」などゝ良介が云つた。
そつちへ移つてから彼等は、あまり酒を飲まなくなつた。良介は、流しを拵りかけて六ヶし過ぎると云つて中止した。
良介は、部屋の中に幾つも棚をつくつたり、運動と称して朝夕|内外《うちそと》を猛烈な勢ひで掃除した。彼の家が、この頃のやうにキレイに片づき掃除の行きとゞいたのは初めてだつた。
房州のNからは時々誘ひの葉書が来た。また次郎からは、今度は妙義山へ行くつもりでゐるが一処に行かないかといふ手紙が来た。その時分からまた彼は、長夜の晩酌を始め、また朝のゲーゲーが激しくなつてゐた。
「ゲーが治つたら房州へ行く?」
彼がさう云つたことがあるのを思ひ出して彼女は、訊ねた。彼等は、彼のそれを「ゲー」と呼び慣れてゐた。
「あゝ、行くよ。」と、彼は答へた。そして彼は、済して「ゲーは、ジー・エイ・ワイだ、即ち Merry, lively, jolly, sportive」
「…………」
「うむ、さう云へはそのやうな名前の野球チームがある。」
「…………」
彼女と良介は、別の話をしてゐた。彼は、口のうちで、あの野球団に俺も入会しようかな? などゝ聞えぬ程度に呟いた。文人の間に組織されてゐる野球チームなのである。
Nは、とうに帰り、空がすつかり秋らしい色になつたが、運動と節酒をすれば直ぐに治る筈の彼の病気は、治つてゐなかつた。
もう新学期が始まつてゐたが土曜日になると次郎は、活動写真を見物に泊りがけでやつて来るのが常だつた。
「また、来たのか?」と彼は、ふざけるやうに云つて、戯れに似せた苦い顔をした。
酷い二日酔ひで彼は、縁先に胡坐したまゝ動くことも出来ない位ゐだつた。眼に触れる生物が悉く厭はしい――彼は、そんな風に己れの気持を誇張して、そのうちで自分が最も厭しいなどゝ思つた位ゐ気分が悪るかつた。
「少し散歩でもしていらつしやいよ、皆んなも出掛けたわよ。」
「厭だア。」と彼は、不機嫌に叫んだ。うつかり散歩にでも出ると、電車に突き当るか、川の中かへ転がり落ちでもしさうな気がした。また別に、いつか、夜大変に混んだ某電車が某停車場に入る手前のガードの上で故障が出来て停車すると、停車場に着いたのかと思つて一人が先に降りると、続いて何人か降り、八人目だかに漸く其処が歩廊ではなくて、降りた人々は悉く数丈下の道路に落ちて人事不省に陥つてゐたのが解つた、といふ話と、最近何かで見たのであるが、そんなことは千に一回の割合にもない珍らしいことださうだが、落下傘を背おつて航空機から飛び降りたところが、如何なるわけか傘が開かないで、その航空家は大怪我をした、といふ話を、別段斯んな場合に自分に何の関係もないのに、ふつと思ひ出すと彼は、水を浴せられたやうにゾツと五体が縮まる感に打たれた。
彼は、突然彼女をガミガミと勢急に罵り出した。
「手前えの口の利き方が気に喰はないんだ、チヨツ/\/\! 何んだ/\その坐り方は! カツ! もう菓子なんぞをパクパクと喰つてゐやアがる、喰ひしん棒! ……あゝ、堪らない/\、神経病になりさうだツ、煩さい/\、どこかへ行つてしまへツ! あゝ、気持が悪い、独りにならなければ、とても堪ツたもんぢやアない! この吐気だつて、何も酒ばかしのためでもないんぞウ! 神経病のはじめなんだア! それをヒト(余)の気分にもかまはず、傍の奴が……あゝ、もう口を利くのも面倒臭いツ! カツ!」
あまり突然の剣幕に怖れを抱いたのか? 彼女は、ギヨツとして頬をふくらませてゐたが、一言の言葉も発せずに間もなく涙ぐむと、口惜しさを凝つと肚に据ゑた素振りをして、やをらその場を去つた。
彼は、晴れた秋空を静かに見あげて、眩暈ひを覚えた。――でも、飽くまでも凝ツと身動きせずにゐると、そんな五体にも微かに、爽やかな秋の気を感じた。
「早くこの病ひを治してしまはう、そしてあのチームに入会して久し振りに花々しい腕を奮つて見よう、海も山も、思案中にお終ひになつてしまつたし、他に運動の方法もないし……今度こそは!」などゝ思ひながら、細い腕をぬツと突き出して、ギクギクと折つたり伸したりしてゐると、他合もなく鬱屈が溶けて興奮さへ覚えた。そして、空々しく口笛を吹き鳴した。
ふと彼が、見ると、前の木立の間で見えかくれに彼女が真正面に此方を睨ん
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