は、美術学校と音楽学校の周囲を一周した。何処にも赤いジヤケツを着て、私の駒下駄をはいて出たといふHの姿は見あたらなかつた。
「居ないかね。」
「居ない!」
周子は門口にぼんやり立つてゐた。
「遊びに行く家があるの?」
「大概聞いて見た。」
「ぢや交番へ行かうか。」
私が斯ういふと周子の眼からは、新しい涙がぽろ/\とこぼれた。「迷子!」
「あんな小さい者が……とても番地は知らないね。俺の子供の時分の迷子札をお前は小田原から持つて来たが、あれを何故つけておかなかつたんだ。」
「付けておけば好かつた。」
「俺の名前は知つてゐるね。」
私は、さう云つて思はず笑つた。
「だつて、――名前だけぢや、とても……」
周子は笑はなかつた。
「あゝ、困つたな、――交番の帳面には皆な名前が付いてゐるんだらう。」
「駄目よ、そんなこと。」
「うむ、駄目だ。」
飛行機が飛んでゐた。
「お父さんのお名前は? と聞かれたら、知らないと云ふんだよ、と私が昨夜も今日も教へたのよ。」
「そしてヒデヲは何と云つた?」
「知らない、と云つてゐたわ。」
「チエツ!」
「どうしませう?」
「お前交番へ行つて来いよ。」
「さうしませうか。」
「待つてゐる間が厭だな。」
「ぢやあなた行く?」
「行かう。」
そして二人が、ぼんやりしてゐると、角をまがつて、Hが現れた。私の大きな駒下駄を引きずつてゐた。
周子は、黙つて家へ飛び込んだ。私もその通りにした。
Hは、椅子にまたがつて切りに自動車の真似をしてゐた。
私は、二階にあがつて昼寝をした。Hが、赤鬼といふ綽名の不良少年になつた夢を見た。
その晩の食卓では、私は近頃にない好機嫌で人の好いことばかりを喋つた。
「喪中なんだ、今年は――」
母から来た手紙を読みながら、私はそんなことを呟いた。
「気を付けてくれよ。」
「ホツホツホ……」
「やつぱり番地と名前は教へて置かうかね。」
「そら御覧なさい。」
「ヒデヲ。」と私はHを呼んで、優し気な声で、
「お父さんの名前は何?」と訊ねた。
「知らない。」とHは云つた。
「お前いろいろ教へてやつて呉れ。」
「上野・サクラギチヨウ・十七バンチ――ヒデヲ云つて御覧! ヒデヲちやんのお家は何処と云つたら、サクラギチョウ・十七バンチといふんですよ。」
「うむ、お前は仲々教へ方がうまいなア。」
私は、切りに周子を煽てたのである。周子は得意になつて、繰り返し/\熱心に同じことを口吟んだ。
「おゝ、うまい/\、ヒデヲは悧巧だな。」
少し真似られる毎に、私は仰山にHを称讚した。「十七バンチまで云へれば大したものだ。」
「ぢや今度は、お父さんの名前?」
「タキ・チンイチ。」
「さうぢやありませんよ。タキノ・シンイチと云つて御覧。」
周子は、取り済してこれも何遍も何遍も繰り返した。だが、一遍さう覚えた為か、それとも全く舌が廻らないのか、Hには如何してもさう[#「さう」に傍点]より他に云へなかつた。
その晩は、椅子テーブルは廃止にして、私は畳の上に胡坐をかいてゐた。そしてにやにやと笑ひながら、母と子の対話を眺めて盃を乾してゐた。
「タキノ・シンイチ。」
「タキ・チンイチ。」とHは続けた。
私は、すつかり酔つた口調になつてゐた。そして鷹揚に手を振りながら、
「いや、もう好い/\。もう大丈夫だ。――シンイチだつてチンイチだつて、何だつて関ふものか。」などゝ云つた。
「いけませんよ、ついでの時に、しつかりと直しておきませう。」
「いや、もうそれは好くない。気の毒だ。何だつて関ふものか。ハツハツハ……」
「戯談ぢやありませんよ。」
「関はないんだよ。」
「ヒデヲちやんの名前は、タキ・ヒデヲツ!」とHが云つた。
「おゝ、さうだ/\。」と私は、大きく点頭いた時、涙のやうなものをのみ込んだ。
「お父ちやん、タキ・チンイチ。」
「おゝ、さうだ/\。」
私は同じやうに点頭いたのである。
「気の変り易い人だこと……」
さう云つて周子は、寂しさうに笑つた。
「あ、御免だ/\。ヒデヲ御免よ。」
「何をつまらないこと云つてゐるんですよ、何となくあなたは、此頃爺臭くなつたわね、お酒の飲みツ振りが――」
「うむ、たしかにさうだ。……何しろ喪中だからね、……何も出来ないんだ。うつかり新聞も読めやしない、斯ういふ時は気にし始めると、何でも気になるものだ。」
「あまり気にする質でもないのに……だけど夜遅く酔つて帰るのはお止めなさいね。」
「止める、止める。――」
さう云つた時、私は身の縮んで行く思ひさへした。
「どんなことをあなたが小説に書いたんだか知りませんが、この間見たいな厭なことさへあるんですからね。」
私は四五日前突然警察に呼ばれた。滝野信一が飯坂といふ温泉に滞留して、暴飲の揚句滞在費を支払はずに逃走
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング