遠慮した。
「イチ、ニイ、シヤン、五、八――」
「五、八ぢやありませんよ、四五六七八、もう一遍やつて御覧な。」
周子は、妙に取り済してHにそんなことを教へた。私は、擽つたい寂しさを感じた。そして私も気取つた口調で、
「子供といふものはね。」と云つた。だが巧く言葉が続かなかつた。――「間違ひだつて何だつて好いんだよ。教へたりなんて、するねえー」
「教へたつて好いわよ。体操はあなたが教へたんでせう。」
私の野蛮な口調にムツとした周子は、それでも赧くなつて返答した。教へる[#「教へる」に傍点]と角をたてゝ云はれたのが、口惜しさうだつた。
「俺は教へやしない。俺は一人でやつたんだ。ヒデヲはそれを真似したんだ。」
私は、もういくらか酒に酔つてゐた。父母の愚かな争ひなどには頓着なくHは、切りに運動を続けてゐた。
「決して教へることは止めて貰はう。」私は意固地に喋りつゞけた。「教へないでも覚えるだけのことは覚えるだらう、覚えなければ覚えないだつて好いぢやないか。覚えようと、覚えまいと……だ。」
私は、舌が廻らなくなつた。同じ文句ばかり循環小数のやうに繰り返してゐる自分の馬鹿さ加減に肚がたつた。周子は横を向いて、聞いてゐるわけではなかつた。
「何云つてゐやがるんだい。」と私は呟いた。
「だんだん阿父さんに似て来る!」
「似ようと似まいと俺の知つたことぢやない。」
「もう止して下さいよ。」
周子は、疳癪の舌を鳴らした。
「無心の運動には、爽やかな天地のリズムが自づと含まれてゐるんだ。」
「チエツ!」と周子は云つたが、また厄介なことにでもなるといけないと思つたらしく、気を取り直して、
「毎日好いお天気なのだから、稀にはヒデヲを伴れて公園の方へ散歩にでも出掛けたら……」
「…………」
「一日に一度位ゐは伴れてつてやらなければ可哀想ぢやないの! 此頃は一寸も眼が離されないのよ、直ぐに外へ出掛けて……」
「伴れてつてやるものがないから出掛けるんぢやない、三つにもなれば往来へ出て遊ぶのは当り前だ。」
「危いわよ。」
「…………」
「でも、此頃あなたの名前を覚えてよ。」
「ほう!」と私は、うつかり好奇の眼を輝やかせた。すると周子は得意になつて、Hを呼び寄せて、
「ヒデヲちやんのお父さんの名は?」と、訊ねた。
「タキ・チンイチ。」Hははつきりと云つた。
「ね!」と周子が私の方を振り向いた時、私は、
「馬鹿ツ!」と叫んだ。……「誰が教へたんだ。」
「知つてゐたつて好いぢやありませんか。」
「感じが悪いよ。三ツ児がそんな芸当をやるなんて……。不自然だ、イヂけた感じがする、第一正当な発音が出来ない。」
周子が自分の里《さと》などへ帰つて、Hに自分の名を云はせて母親などを感心させたりする光景を私は想像した。そしてHが称ふ音《おん》が、滑稽に響いて皆が笑ふであらうことを想つて恥を感じたのだ。だが私は、威厳を保たうとしてさう[#「さう」に傍点]と正直には云はないのである。私は一刻前以上に口を極めて、偉さうに意味あり気な言葉ばかりを連ねて周子を非難した。
「そんなに悪いんなら止めませうよ、二三日口にさへ出さなければ直ぐに忘れてしまひますよ。」
「止して貰はう。」と私は怒鳴つた。「俺の名前はタキノ・シンイチだア。」
翌朝周子は、
「あなた昨夜は随分酷く酔つたわね。後ろに反つて椅子から落ちたのを知つてゐて? 名前のことで憤つたわね。だけどほんとに可笑しいからもう止めませうよ。」と云つた。
「うむ。」と私は点頭いた。
新聞に眼を曝してゐた周子は、
「おやツ!」と軽く笑つた。――「島送りの少年悉く逃走す――ですつてさ。(引率の両氏が飲酒中船に乗りおくれて。) まアまア……」
「どれ!」と私も軽い興味をそゝられて、新聞を引き寄せた。――(……目下修繕中の六郷橋の渡しに手間取つたため横浜に着いたのは三時半となり、小笠原行きの近海郵船は定刻の三時に出帆した後だつたので引率の両氏は聊かやけ気味となり某料理店で飲酒中少年等は一斉に逃走す……)などゝ報じてあつた。
同じ日の午後の出来事だつた。――私は、二階の書斎に引き籠つて、寝転んで天井を眺めてゐた。周子が、疲れ切つた恰好で、そして非常に亢奮して私の傍に来ると、
「ヒデヲが何処かへ行つてしまつた。」と云つて泣き出した。私に聞かせまいと思つて、広小路までも逢初橋までも探したのだが如何しても見つからない、もうかれこれ一時間になる――と伝へた。
「あんな新聞を読んだからかな……」
私は、カツと取りのぼせて思はずそんなことを口走つた。
「そんなことはありません。」と周子も夢中で、真面目に首を振つた。「私は昨夜いやな夢を見た。」
「迷信は嫌ひだ。」と私は云つた。
私は、その儘飛び出した。空が好く晴れてゐるのが悲しかつた。――私
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング