したといふのである。私は二十九歳の今日まで一度も旅行したことはないのだ。同姓同名の誤りだらうと云つた。それでも私は警察の寒い一室で、一切の履歴を申し述べなければならなかつた。
「あなたは『蝉』といふ小説を書きましたか?」
「えゝ、書きました。」
「どんな内容ですか?」
「一口には云へません。」
「その男が、俺は『蝉』といふ小説を書いたと云つてゐるのです。」
「ぢや同姓同名の誤りぢやないんですな。」
「偽名ですかな。」と警察官は云つた。
「ほう!」と私は、思はず眼を見張つてセセラ笑ひを浮べた。
「あなたは酒は飲みますか?」
「えゝ、飲みます。」
「どれ位ゐの量ですか?」
「さア……」
「二三合位ゐですか?」
「そんなものでせうな。」
「酔ふと、どうなります。騒ぐ方ですか? それとも眠る方ですか?」
「元気溌溂とします。」
「本名の他に、筆名がありますか。」
「ありません。」
「裕三郎といふ名前があることになつてゐるんです、これが――」
「なるほど!」
「酔つて「蝉」の真似をしたんださうです。」
「さうですか。」と、私は答へた。小説『蝉』の内容をこゝに書くことを略すが、私は苦笑を洩すより他はなかつた。禍は別として、その時私はその見知らぬ悪漢に軽い親し味を感じたりした。だがその日の不気味さは容易に消えなかつた。
「それにしても俺の名前などを用《つか》ふなんて可笑しいな。いたづらにしては酷過ぎるし……」
「有名でないところが、却つて都合でも好かつたんでせうね。」と周子も苦笑を洩した。私は、折角忘れかけた恐怖の念がまた甦つて漠然と胸を震はせた。見知らぬ人、偽名、そんなことを想ふと、それが緒口になつて暗澹たる広漠の世界が思はれたり、不吉な風が山も川も木々の差別もなく吹き荒む、運命、死、恐怖――そんなありふれた、だが夥しくグロテスクな絵が浮んだり、夢のやうな不安に襲はれたり、何処か遠くの知らぬ世界に突然拉し去られるやうな寂しい思ひがした。
「そんな面白くない話は止めよう。」
私は、首を振つて、一気に盃を傾けた。そして三月に死んだ父のことを回想した。……(大地震、大火、父の死、家運の衰微――)
「田舎行きは如何するの?」
「それも面倒になつたんだ。」
「だけど、この家ぢや、ともかく寒くつてやりきれませんね。」
「くよくよするねえ。」と私は、突然景気好く酔つた声を揚げた。そして、声色に鹿爪らしい調子を含めて、
「――今年は神前には供へられねど、御身の誕生の印には赤飯をたいてはるかに健康を祝し申し候 英雄《ヒデヲ》の三歳の祝ひは忌服あけに延すなるべし。来る年の幸福を祈り喜びごと万づ祝ひのばさん。」と、たつた今しがた受取つた母親の手紙の一節を、朗々たる節をつけて読みあげたのである。前日、十二日、私の誕生日の朝、母が出した手紙である。私は、
「めでたし、めでたし――だ。」などゝ云ひながらフラフラと立ちあがると、玩具の蓄音機にキヤラバンのレコードを周子に懸けさせて、Hと共に、節面白く壮快滑達なダンスを演じたのである。
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「日本小説集 第一集」小説家協会編、新潮社
1925(大正14)年6月6日発行
初出:「新潮 第四十二巻第一号」新潮社
1925(大正14)年1月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2010年5月23日修正
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