ないか……」
渡し場の船頭がなれ/\しく言葉をかけ、どうやら前の晩の酒場の友らしいのであるが、わたしには一向に見覺えもないのであつた。浚渫船のクレインの響きが港一杯に鳴り渡り、目醒ましい水煙をあげてゐた。彼は、おそらく前の晩の容子と、あまり違つて白々し氣なわたしを妙に感じたらしく、折角はなしかけた腰を折られて、水煙の方へ眼を反らせながら、せつせつと艪をおしてゐた。鴎は、わたしのふところから首を出して、空を見あげてゐた。――わたしは、三崎の宿の、親戚に、島の夜を過ごすのが常だつた。大きな網や舟を持つてゐる漁家で、どんなにわたしが困つても、宿賃をとらうとしなかつた。そのくせわたしは、醉ふと遠慮もなくなつて、また來たぞ/\!などと、おそらくタツノオトシゴが口を利いたならば、そんな聲でゝもあるかのやうな、ぶつきら棒な、横柄な調子で鳴り込むのであつたが、その聲の強さうなのに似合はず、見るからにわたしの姿は相撲が弱さうであるためか、反感などを抱くけしきもなく、專ら珍客としてもてなすのであつた。
どうやらわたしは、島の春に有頂天であるかも知れぬのであつたが、白々と醒めると海原の蒼さが眼にも滲み、とう/\半島の出つ鼻までも流れ住んで最早地上の空想の種も盡き、沖を走る舟の上にでも夢を乘せるより他には灯影もまたゝかぬかといふやうなおもひに憑かれて、燈台が光り出す時刻にもなるとふら/\と渡し舟に乘つて、島へ渡る夜が度重なつてゐた。
「ところが、たうとう鳥をつかまへたといふわけさ。當分は、この鳥の介抱で、夜の眼も眠らないかも知れないんだよ。」
こんどはわたしが、船頭にはなしかけたのであつた。彼は、聞えぬ樣子であつたが、やがて、
「夏まで三崎に居るつもりかね?」
と訊ねたりした。
「多分、居ないだらう……」
「夏になると、着物をあたまにしばりつけて、男どもは舟がなくなると、こゝの間ぐらいは泳いで渡るんだよ。」
そんな事をはなしてゐるうちに、間もなく渡し舟は三崎の岸に着きさうになつたので、わたしは急に思ひだして、ふところをさぐつたのであつたが、ふところのものは煙草も手帳も双眼鏡も、その他のものもみんな紛失してゐて、鴎が眠つてゐるだけだつた。手帳と云つても、到底他人に見せられぬたぐひの歌のやうなものが誌してあるだけであるし、双眼鏡といふと少々物々しいが、新らしいけれど値段さへ忘れてゐる
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