と今片づけたところなんです。」といひながら、座敷の障子を明け拡げた。
 純吉は縁側に腰を降した儘、煙草を喫《ふか》しながらぼんやり広い庭を眺めてゐた。深く繁つた泉水のまはりの樹々のなかゝらは無数の蝉の鳴声がひとつに溶け合つて、喧ましい夢のやうに周囲の静かな空気をふるはせてゐた。
「旅行にでも出掛けるんですか?」
「旅行? そんな楽しみぢやないんですがね――」といつた小母さんは楽しみらしく、声色に意味あり気な甘味を含ませた。
 拙いことをうつかり訊いちやつた! と純吉は後悔した。……みつ子だな――純吉は直ぐにさういふ想像を拡げた。
「清一が明日名古屋へ行くんで――」
「あゝ名古屋ですか。」純吉は口ばやく繰り返して、努めて邪念なさ気に点頭《うなづ》いた。名古屋といふのは勿論みつ子の代名詞なのだ。
 さて斯うなると何かみつ子に関するお世辞をいはなければなるまい――純吉はそんなことを思つて、それが非常に厄介な気がした。
「みつちやん別に変りはない?」
「えゝ、変りはないが相変らず我儘でね……」
「ハッハッハ。」純吉はいかにもこの家庭に特別の親し味を持つてゐる者のやうな素振で、小母さんに調子を合
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