がて隣りの窓を静かに叩く音がするので、此方も静かに伸びあがつて外を眺めた。
 男の肩から肩を伝つて、女が窓から忍び出るところであつた。今となれば別段邪魔をする必要もなかつたから僕は、ただ、そつと眺めてゐると、五六人の狼達が女を真ン中に抱きあげて抜足で木影の方へ消えて行かうとしてゐた。――僕が見てゐるのを知つてか、知らぬか、一同は声を立てずに一勢に此方を振り返ると、女も一処になつて、満足さうな憎々しげな顔をつくり、そろつて、ぺろりと舌を出した。
 僕は僧侶の破戒の光景を連想した。――やがてはミツキイの男装を見破られて、掠奪される光景を聯想せずには居られなかつた。その時のは、共謀の茶屋の女だつたから騒ぎもそれだけだつたが、民家の女房や娘が彼等のために危害を加へられた噂は常に頻繁であつたが、何故か村人達は、それらの事件を危害とまで数へぬといふ風な、風習であることも、次第に僕に解つて来たが、「男ぞろひの山」であることばかり信じられてゐる此処に、ミツキイを擁してゐる事実は、僕とミツキイにとつては決して好奇心程度の冒険ではなかつた。
 通信が多忙であると称して、ミツキイは滅多に小屋の外へ姿を現はさぬことに努めた。僕達は、なるべく日暮時に散歩した。事務所がランプを用ひてゐるだけで、酒盛りでもはじまらぬ限り何処の小屋でも蝋燭も惜んでゐる始末だから、訪ねて、声をかけても、言葉だけの応酬で姿などには気づかれもしなかつた。
「ミツキイ、お前の胸に――」
 と僕は屡々云つた。「いさゝかでも陰鬱な怖《おそれ》や戦きが湧きあがるようだつたら、吾々は速刻山を下らうよ。」
「おれは――」
 と彼女は答へるのが常だつた。「輝やかしい思ひ出として、これが残るためには、物語のやうな冒険に出逢ふことも厭はないさ。」
「この間の朝、お前が山鳥を打ち落した時、俺は、思はず、お前を抱きあげて接吻を与へた……」
「……おゝ、また、山鳥を打ち落して見たいものよ、お前の暖い接吻のために!」
「ところがね、それを、橇引きのミスター伝に発見されたことを、さつき知つたのさ。」
「……えツ!」
 ミツキイは、思はず震へあがつて、慌てゝ窓にカーテンを降すと、僕の胸に飛びついた。
「許してお呉れ、結果を先に云はなかつたことを――」
 と僕はあやまつた。
「驚ろかなくても好いんだ――あれはね、俺達が悦びの感情を示し合ふ時の、西洋風の無頼漢同志の挨拶なのさと説明したらばね、ミスター伝は、俺達は西洋流を知らないことは幸福だ、知つてゐたならば、ぢや、あの禿鷹や山犬をつかまへて唇を寄せ合ふなんて……と彼は、思はずその光景を空想して、激しい戦慄と一処に唾を吐いたよ。」
「…………」
「大丈夫だよ。彼等はシネマを観た経験もないんだから。」
 それでもミツキイは、僕のはじめの発言に驚ろかされて、いつまでも僕の胸の中で震へてゐた。
 ともかく僕達は、寝む時に、夫々の枕の下に短銃を忍ばせることは忘れなかつた。風の激しい晩に窓が鳴つたりすると、思はず跳ねあがつて、顔を見合せることも珍らしくはなかつた。ミツキイは、厚い皮製の牧童ズボンを着け兵隊靴を穿いたまゝ、うたゝ寝のまゝで夜を明したこともあつた。
「奴等が、これと眼をつけた女を見つけ出せば、その晩のうちにおし寄せて、担ぎ出してしまはなければ、神様に申しわけがないと信じてゐるんだから――さうなればもう相手が役人であらうが、村長であらうが見境ひの余裕なんてありはしない。」
 山長の熊鷹が、自分の若者時代の手柄噺などを語りながら、そんな意味のことを壮烈な方言で附け加へて、密かに僕達の胸の中を怯やかせたこともある。

     二

 毎日僕は目醒しい労働をつゞけてゐるので、ミツキイよりも先に目を醒したことはなかつた。僕が起きる頃には大抵もう朝餉の仕度が出来て、ミツキイは僕の出て来るのを待ち兼ねて、煙草をくわへながら囲炉裏の傍らでカルタを切つてゐることが多かつた。
 朝は、前の日の労金を受けとりに来る者や、出勤の札を預けに来る人々で、事務所の受付口は仲々混雑するのであつたが、稍早めに出て来た人々は囲炉裏のまはりに集つて四方山の話に耽つてゐるのであつたが、僕が出て行くまでのミツキイは、言葉の通じないのは苦痛でもなかつたが、西洋人であるといふことで何となく人々の注視を浴びるのに向つて、容易ならぬ身のこなしの六つかしさに辟易した。
 私は、だから目醒めると直ぐに、その「食堂」に駆け込んで、元気一杯に其処に集つた人々に向つて朝の挨拶を浴せると、
「ジヨンニー、綺麗な天気が続くぢやないか。」
 などゝさりげなく呼はりながら、ミツキイの椅子の腕に凭つて――挙動さへ互ひに飽くまでも男同志らしく振る舞つてゐれば、会話は何を喋舌らうと自由であつた。
「さつきから、何うも伝の目つきが怪し気に光るのだが、不審を抱きはぢめたらしいよ――」
 その朝、私の姿を見るがいなやミツキイは、囲炉裏の傍らで朝酒の茶碗を傾けてゐる伝を指差した。
「君達は今日は仕事は休みかね。」
 五六人の者が、厭に落着き払つて傾けてゐる茶呑茶碗は悉く酒らしいので、僕が左う訊ねると、今日は、橇道がこわれたから、朝の発荷だけを済したら、一日休むと決めて村に下らうと思ふのだから金を借して欲しいと、稍不気嫌さうな口調で申し出た。――で、僕が納得すると、一同は忽ちはしやぎ出して、先日僕達に救けられた茶屋の女が、あの時の「ジヨンニー」の甲斐/″\しい様子に、すつかり魂を奪はれてしまつて、是非ともあの「男らしい異人さん」を伴れて来て欲しい、若しこの頼みを諾かなければ、今後決してもうお前達の申し出はお断りだ――と威嚇するのである。あの女には俺達五人の者が同じ程度に激しく参つてゐて、若し、そんなことになれば俺達は生甲斐がなくなつてしまふのだ、それ故今日は是非ともジヨンニーをあの女の許へ伴れてつて呉れ――と、五人ばかりの男が、云はれて僕は人数をしらべて見ると伝をはじめ、山猫、禿鷹、モモンガア等々と、たしかに五人の男が、頭をさげて僕に懇願するのであつた。
 僕達には想像も及ばないのであるが、一人の女をめぐつて、平気でいくたりもの男が仲睦まじく、そんなことを云つてゐるのを目のあたりに見せられると、その、あまりな「唯物的」な愛の共有ともいふべきものに対して、僕は滑稽感さへ誘はれた。この間の婦人が、是非ともお前に会つて礼を述べたいからといふので皆なと一処にこれから山を下らないかと彼等は、僕達を迎へに来たのだが――といふ風に僕がミツキイに伝へると、
「発見される怖れさへなければ――」
 と彼女は、寧ろ同意した。
「若し発見されたとしても、村へ行つてからのことならば安心だよ。再び山へ戻つて来ない用意も整へてから行つて見ようぢやないか、不思議な面白さに出逢へさうだぜ。」
 僕達の代りを務める事務員が一週間ばかり前から到着してゐたので、僕達はもう何時からでも自由であつた。寝ても起きても、不自然な気苦労ばかりの連続て、ミツキイも僕も稍ともすれば溜息をついてゐたところであつた。――ミツキイの雪焦けの顔は、もう、とつくにさめてしまつて、朝晩のメーキアツプが相当の困難となつてゐたところであつた。夜おそく、人々が寝静まつたのを見定めてから、馬小屋の隣りにある浴室で、闇の中でミツキイは浴《ゆあ》みをしなければならなかつた。僕は、ミツキイの入浴中、それは恰も国境を警備する番兵のやうな厳めしい顔をして、短銃を握つたまゝ張り番をしてゐるのであつた。――もう夏のちかい頃で、蛍がちらほらと飛んでゐた。
「終つたよ。出て行つても確かい?」
 ミツキイは、稀な入浴時に、はじめて武装を解いた身軽さのまゝで、戸外の空気を呼吸することを希ふのであつた。――で、僕が一層眼を皿にして、あたりの気配を験べた後に、O・Kを告げると、
「ぢや、これを、あたしの窓の中へ投げ込んでお呉れよ。」
 と、ほつとした彼女としての特有な声を送るのであつた。僕は、その時、未知の婦人の声を突然に聞いたやうな胸のときめきを覚ゆるのであつた。こんな山の中で、婦人の綺麗な声を聞くことが、いかにも荒唐無稽な現象のやうに思はれたり、また、こんな風な森の中であのやうな生活を続けてゐる男達が、女の夢のためには、あのやうに猛々しい狼になり変るのは当然のことであると、突拍子もない同情の念に駈られたりした。
「……タイム・イズ・トレジユア!」
 僕がためらつてゐるのに気づいて、ミツキイは板囲ひの浴室の中から疳癪の声を挙げたりした。
「靴を先へ……」
 と、兵隊靴をつまみあげたミツキイの腕が扉の間から僕の眼の先へ現れる。僕は、大いに慌てゝ、次々に攫み出される皮ズボンを、ジヤケツを、帽子を、肌着を、靴下を、ピストルのぶらさがつた腰帯を、夢中で抱へ込んでミツキイの寝室の窓へ投げ込むのであつた。あんな武装の下には、やつぱし婦人用の沓下留めを用ひ、コルセツトを絞め、こんなふわふわとしたシユミーズを来てゐるのか――などゝ僕は、今更のやうに、そんなものを愚かし気な眼つきで改めながら、一つ一つ窓の中へ投げ込んだりしてゐると、いつの間にかミツキイが背後に現れて、厭といふほど背中を叩いた。
 月あかりで見ると、全く別人と変つたミツキイがタオルのパジヤマにくるまつて、薄らわらひを浮べてゐた。
「コンパクトの鏡と、ライタアの光りで、ちよつとお化粧をしたのよ。」
「……そんな美しい顔に!」
 と僕は思はず叫んだ。「また、これから、直ぐに、あんな毒々しいセピア絵具を塗らなければならないかと思ふと、僕は大分もう山の生活が呪はしくなつて来たよ。」
 朝の発荷を終へると、乗馬は事務所のラルウが一頭より他残らなかつたので、さて、今朝は、三国一の色男と祭りあげられたミツキイが、晴れの長靴を輝やかせて、先頭に手綱を執ると、一同の取巻連は鬨の声を挙げて村里を目指した。
「あの男ばかりが――」
 と僕は馬上のミツキイを指差して山犬の伝に訊ねた。「その女の人に、もてはやされるのを見ても君達は別段厭な心地はしないのかね?」
「ジヨンニーが、首尾好く俺達の女と寝て呉れゝば、これから後あの女は当分俺達の窟に来て住まはうといふ話なんだ。山長の眼をかすめるために、あの女を男に仕立てゝ山籠りをさせようといふことになつてゐるんだな。左うなればお前やジヨンニーも仲間にするから、一晩置きに通つて来るが好からうぜえ、今日からお前たちも、れつきとしたぬすつとの仲間となつたわけだ。」
 他人の眼をかすめて、山に女を貯へる一味を、彼等は盗人団になぞらへてゐるらしかつた。

     三

 なるほど山の男達が五人がゝりで逆《のぼ》せてゐるだけあつて、お銀と称ふ、その、先夜の女は、稍風変りな性質を持つたらしい神経質な眼差の、どこかに颯爽たる雰囲気のある美女であつた。
 お銀は僕達を発見するやいなや、いきなり僕の手をとつて、物蔭へ招き、
「あたしは斯う見へたつて、未だ山の奴等には誰一人にだつて許したことはありはしないんだよ。好く来て呉れたね。」
 と云つた。そして、斯んな野蛮な村は一日も早く逐電したい意志を持つてゐる――に就いては僕達が村を去つて都へ帰る日に、何かと口実をつくつて一緒に伴れ出して呉れないか、山を越へた先の市まで行けば落着くところがあるのだから――。
「頼まれて呉れるかね。」
「道伴れにならう……次第に依つては今夜にでも俺達は出発するかも知れないんだよ。」
「奴等はお金を大分持つてゐるらしいね。どんなに、だらしがなく奴等はあたしの云ひなりになるか、面白い芝居を見せてあげようか。」
「――うむ、見せて呉れ。」
 と僕は云つた。
 僕とお銀が、そんな相談をしてゐると、もう隣りの部屋で酒盛りをはじめてゐる一同のやかましい声が聞えた。
「今日まで俺は、息を殺してゐたが、薄々は気づいてゐたんだが、はつきり、それと、おとゝひの朝見とゞけたんだ。」
「どんなところを見とゞけたんだよ?」
「…………」
 急に声を潜めたので、その説明は開きとれなかつたが、
「して見ると、野郎の方が俺達よりも悧
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