思議な光景に出遭つた。
「私は今朝未明に起きて、わざわざS町まで馬を飛ばせて漸くの思ひで、この花束を買つて来たのでした。その由を伝へて、是非とも遠来のタルニシア姫へ……」
「僕はあの業慾な地主の温室に忍び込んで、この花束をつくつて来たのだ。地主の倅は村一番の見事な花輪を造つてチルさんの御気嫌をとる目ろみだつたところが、花泥棒に出し抜かれたのを今朝気がついて卒倒したさうだ。僕は今夜にでもあの倅と森の奥へ行く(決闘の意)だらう。――命のこもつたこの花束を、今のうちに、どうぞ……」
「……私は昨夜、一睡も眠れず……」
「……今はもう何うすることも出来ない恋の矢に射抜かれて……」
「あの娘が息ついた空気をおれは追かけて、昨夜は娘の部屋の窓下で……」
私は、叫喚にとりまかれて身動きもならなかつた。私は恰で蛍のやうに眼となく鼻となく花束で叩かれて息苦しく咽びながら、
「まあ、まつてくれ、諸君、それでは到底諸君の意志を悉く彼女に伝へるほどの予猶が見出せないではないか。――それよりも何故諸君は勇敢に、直接彼女にそれらのものを手渡さうとはしないのだ?」
と威厳のこもつた音声で唸つた。
「うるさ過ぎるぞ――勝手に彼女の意志による接吻を享けるが好いや。」
すると一同の者は、さつと私の周囲から手を引いて、羊のやうに首垂れ、口々に、
「それは無理だ。」
「おれ達はこんな震へを持つてゐることも知らないで……」
「お前が何時も傍にゐるんで機会がないよ。」
「同じ日本語でもおれ達のそれは通訳がなければ役に立たぬのを知つてゐるくせに……」
「……おゝ、接吻! 考へたゞけでもおれは昏倒しさうだ。」
「…………」
などゝ不平さうに呟いだ。
私は、わけのわからぬ権力者であるかのやうに、尊敬されたり、呪はれたり、得意にされたりしながら花束のグルウプにおされて、ロータスの店に着いた。
私は中央の樽に腰をかけ、水のコツプを手にしてゐたが、私の腕にとりすがつて、メソ/\と泣いてゐる憐れな画家や、手紙をつきつける者や、医者に診察を乞ふ患者のやうに露はな胸を突きつけて、この気たゝましい心臓の音を聞いて同情せよ――などゝ攻められて、一杯の水を飲む猶予さへも見あたらなかつた。
三
「おゝ、車の音が聞こえるぞ!」
やがて一人の男が斯ういつて耳をそばだてると酒場は忽ち水を打つたやうに寂として、ある
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