つて、眼を据えたまゝ無何有の境に、私共を裏切つた。
「さあ、さあ、酒は何樽でも御所望次第、持つて行かれるものならば此場から御遠慮なしにお運びになつたらいかゞなものだ?」
「もう一度、申して見給へ。」
私は彼の卑怯性では従来再三ならず手を焼いた経験を持つてゐるので、さう念をおしたついでに兵田の鞄から紙片をとり出すと、
「書状を書いて御覧な。」
と、わざと冗談めかしく所望した。
「書かうとも/\!」
彼は筆をとりあげて、
「この月の曇らぬ間に、この酒樽を持ち出すならば……か」
などゝ読みあげながら、まことに antic な契約書をさらさらと認めて、
「私の屋敷は、この通りに見事な鬱蒼たる木立にとり囲まれて、月の在所に関はりのない砦であるから、要とあるならば高張提灯を貸さうかの?」
などゝ云つてゐる間に私が、もう一辺、意味のない洞ろな高笑ひで、かけす[#「かけす」に傍点]の擬声を仄めかすと、抜きあしで忍び寄つてゐた七郎丸と権太郎が綱の先の鉤を酒樽の懸縄にがつちりとくわへさせた。
気合ひで、それを察すると私は、見るも意地悪気に頤を伸してゐる主に向つて、
「曇るも曇らぬも待つ間もなく
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