伏せしめて、難なく酒倉の扉を開かしめてやらうと思ふのであるが、
「それでも諸君は、今宵の月に不安の雲をかけようとするか?」
と私は、マセドニアのフリツプを抗撃するデモスデネスもどきの雄弁をふるつて情熱の鬼と化した。喉の痛さを覚へたので私は傍らの水桶をとりあげると、それはドリアンのかいば水だ! と注意されたが、関はずにがぶ/\と呑んだ程の逞しい感情の意気に炎えた。
「ミスター Happy Pendulum!」
と私の仇名を呼んで立ちあがつたのは、村役場の執達吏であつた。「残念ながら、その手は巌に向つて矢を放つよりも空しい戦略であります。既に音無家《おとなしけ》に於きましては、門番に命じて吾々一味の者の姿を見出すがいなや即座にあの[#「あの」に傍点]黒い扉を閉めて、あの[#「あの」に傍点]閂を入れさしてしまふ……」
云ひも終らず彼は絶望の息を呑んで、引きさがつた。
あの扉と、あの閂! それは実にも、一度び閉されたならば人力の微弱さを嘲笑ふ開かずの表象《シンボル》に相違なかつた。
「昨日も私はサイパンと伴れ立つて、談判に行きましたが……」
続いて立ちあがつたのは牛飼男の権太郎であつた。「私は、この拳が割れる程門の扉を叩きました。と、頭の上の物見窓の口があいて、門番が顔を出して、金袋を持つて訪れたのかね、と申すので、否、それに就て相談があるのだ、金袋よりも確実に重味のある提言を引つさげて参り出たのであるから、兎も角、扉を開いて欲しい――と私達は、こゝぞと思つて、今の先生の熱弁よりも凄まじい剣幕で窓先に取り縋らうとした途端、門番は、大口をあけて嗤ひながら、お前達がめいめいに金袋をぶらさげて、こゝでぢやら/\と鳴らしたならば、そいつを合図にこの門を開け――といふ御主人の命令だよ、斯う云つて……」
「では僕は、先づ門番と対話を試みる。親戚会議の急用をひつさげて訪れたのだ、主人を出せ……」
「いえ/\――」
とサイパンが幽霊のやうに手を振つた。「ペンドラムの姿を発見したならば、一切の声がとどかぬ間にあらゆる窓々の扉を有無なく閉ぢて、耳には蝋をつめろ、彼奴は一種独特な笛吹きの術と弁舌をもつて人をたぶらかす手腕に長けてゐて、聴く者あらば必ずその心を囚へ去り……」
「バアバアル……一体これは何うしたら好からうか。」
私は、サイパンが音無の主人の口調を伝へてゐるのにも関はらず、思はずサイパンを睨めつけてしまつた。――「何といふ無礼な奴であらう。」
私は、稍暫く重い腕組をして熟考の底にさ迷ふてゐたが、決して思はしい考慮が浮んで来なかつたので、つい溜息と一処に、
「これは、結局、金袋をこしらへるより他に手だてはないのかしら?」
と呟くと――突如、酒場は、スパルタの下院議員がアテネ討伐の可決に立ち上つた時のやうに湧き立つて鬨の声をあげるや、
「さうだ、さうだ!」とか「先生が、それを決心するのを俺達は息を殺して待つてゐたのだ」などゝ、或者は帽子を飛し、或者は上衣を旗にして絶叫した。
「――つまり明日から私も、講義を止めて、働くといふことなんだが……」
私は一同の者が何うしてそんなに激しく讚同の喚きを挙げるのか、不思議に思ひながら言葉を続けようとすると、彼等はもう私の言葉などには耳も傾けずに熱狂して、ドツとばかりに私をとり巻くがいなや、
「講義は休みだ、嬉しい/\!」
「酒が飲めないことよりも、講義の休みの方が甲斐がある。」
斯んなことを喚きながら、忽ち、先刻のよりも花々しいカロル踊りをはぢめた。もうすつかり、それで湧き立つて人の言葉などは聴く者もなくなつたので私は手風琴を弾きはぢめた妻君の傍らへすゝんで、
「一体これは何うしたわけか、僕は未だ胸中の工夫も少しも発表しないといふのに?」
と質問すると、妻君は口笛の絶間に斯んなことを述べた。
――もう一ト月も私の講義に続かれたらサイパンはおろか、村の若者は悉く勘当されるといふ苦境に至つてゐたのである、といふのは講義が済むと私はいつもいつもあられもないソフイスト気取りで、飲む、飲む、飲む、それがもう大変な莫大な聴講料に当つてしまつて、あちこちの家々では家庭争議が絶え間もなく、やがては村の騒動にならんずる雲行であつた。
「さうであつたか!」
と私は深い感慨に打たれて、それにしても彼等一同の憤しみ深かつたことに同情の念に堪へなかつた。
それ以来私は、R漁場の魚見櫓に奉職して、毎日毎日何回となく長梯子を登り降りしてゐた。サイパンとメイ子は、店を閉ぢて漁場の食堂係りをつとめた。私達は、サイパンの店の一隅に巌丈な錠前をとりつけた銭箱を備へて、酒樽到着の夢を見ながら、漁《すなど》りの業人は海原へ、牛飼等は山向ふの牧場へ、小作家は田畑へ、皆々孜々として仕事に励み、一日の労銀を携へて帰る夕暮時に、その
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング