んて、それぢや反つて俺達の顔を潰すようなものぢやないか、はつはつは……うつふ、何といふ面白くもないナンセンス・ドラマであることよ。うつふ、うつふ……。
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羨君有酒能便酔《うらやむきみがさけありてよくすなはちゑふことを》
羨君無銭能不憂《うらやむきみがせんなくしてよくうれへざることを》
………………
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 ドリアンを曳け、ドリアンを……」
 と、大いに叱咤の腕を挙げるのであつたが、一同も亦黙々として一言の声を発する者もないのである。――見ると、彼等は五百羅漢のやうにたゝずむだまゝいつまでも洞ろに光つた眼《まなこ》をあちこちの空に挙げてゐるのみであつた。
 間もなく私は、サイパンが私達を常連とする限り近郷近在のあらゆる酒問屋は、一切の御用を御免蒙ると由し合せて[#「由し合せて」はママ]ゐるといふ話を説明された。――この上私に、そんな歌をうたはれては、胸に涙さへ込みあげて来ると一同の者も思はずそろつて否々と首を振り、興醒めの風穴に吸ひ込まれて行つた。その私の詩《うた》を耳にすると、身の毛もよだつと云ふのであつた。この上、銭《せん》なくして能く不憂、能く便ち酔はれては、俺達も早々に住み慣れたる故郷《ふるさと》を逐電しなければならなくなるであらうと私は、泣かされた。
「黙れ、馬鹿野郎《バアバアル》!」
 と私は、大いに感興を殺れた腹立ちまぎれに、思はず傍らの漁夫の七郎丸の頭をぽかりと擲つた。
「…………」
 七郎丸の眼から球のやうな涙がポロリと滾れ落ちた。といふのは私の拳が痛かつたのではなくて、私の「永遠の夢」と現実との喰違ひが、憐れで、且また同情の念に堪へぬと云ふのであつた。
「先生!」
 と彼は、真に譴責を享けつゝある兵士の態度で云つた。「この悲しみを先生に見せまいと思つて私達は今日まで、あらゆる方法を講じてサイパンの樽を持ち続けて来たのであるが……」
 するとあちこちから溜息と咽び泣きの声が起つて、酒場は忽ち落莫たる秋の野原と化してしまつた。
「七郎丸、そんなことを先生に云つてはいけない……」
 メイ子は飛びあがつて七郎丸の口腔《くち》を両手で閉した。
「静かにしろ、バアバアル――それなら、それで俺にだつて思案があるぞ。」
 つい私も泣きたくなりさうになつたので、震へ声で叫んだ。私の発声と共に、一同は、思ひをとり直した如く立ち直つて、どや/\と各自の腰掛に戻るより他はなかつた。サイパンも息を吹き返して、メイ子に腕を執られながらストーヴの火を掻きたてた。
 私は、いつぞや私が自ら描写したイダーリアの肖像画が懸つてゐる正面の酒注台に飛び乗つて、両脚をぶらん/\させながら、
「さて、諸君、今の私の暴言を許し給へ。」
 と一咳と共に云ひ放つた。――私は、一週に二回の宵を限つて、此処で、斯うして、彼等に「ギリシヤ哲学」の講義をするのであつた。――宇宙の根元は単なる火か、単なる水か、非ず、万物は永遠に火と水のしぶきをあげて流転する巨大なる水車《みづぐるま》なり、しぶきは絶え間なく遍々と飛んで混沌の虚空を宿す、影去りて光り射し、或る時は、雪晴雲散北風寒《ゆきはれてくもはさんじほくふうさむく》、光、影、火、水、このきらびやかな流転の姿に宇宙の秘義《ミステリウム》あり、恍惚《エクスターゼ》が生じ、生成の浴霊《エンツシアスムス》……二年前の春であつた、私は何うにでも大きくさへ云へば事足りる原始哲学の大法螺の巌を砕いて、縷々と説き来つて、プラトンの野を過ぎ、アリストテレスの街を飛んで、事態漸く中世の戦場に移らうとした頃から哲学と芸術との境が滅茶苦茶になつて、近頃では、主に騎士道文学の享け売りを読物として、まんまと生徒から聴講料をせしめるソフイストとは成り変つてゐた。
 おい、やかましいぞ、皆な少し静かにしろ――その頃の騎士の間では、それ程の意味を表すに、バアバアルと叫ぶのが流行した、源を正せば非ギリシア人といふ程の意味で、引いては一種のスウエヤアに等しく用ひられるに至つた。この言葉を浴せられた者は、手もなく一言の許に引きさがらざるを得ないといふ不文律が生ずるに至つたのである……。
 私は、そんな智識を披瀝して、いつしか私達の間では、これが常用されるに至つてゐたのだ。滅多に放言しない代りに、何人に依らず、いかなる理由があらうとも、一度びこれを相手に叫ばれたならば、沈黙の浴霊にひれ伏さなければならなかつた。
 私は、岬を一つ越へた音無村に父祖の縁家先にあたる業慾な酒造業者が住んでゐて、奴の為に私は様々な被害を蒙り、云はゞ奴の為に私はこのやうに浅間しい浪々の身分とは化したのである、それ故、盗めるものなら盗み出しても罪とは思はぬ、だが、こゝで一番私が智慧をふるつて、ソクラテス流の対話法に依る弁舌をもつて彼の酒造家を説
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