でを共にするまでに至つたかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合には何時も私は人物の名前をも在りのまゝを用ひるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入してゐた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依つてはじめて知り、稍奇異な感もあつて、実名の頓着もなかつたまでなのだつたが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称ぶのだと知らされた。私はミヅナガレと読んだが、それはツルと訓むのださうだつた。
「この苗字は私の村(奈良県下)では軒並なんですが――」と彼はその時も、ふところの中に顔を埋めるやうにして呟いだ。「苗字と名前とが恰で拵へものゝ戯談のやうに際どく釣合つてゐるのが、私は無性に恥しいんです。それに何うもそれは私にとつてはいろいろと縁起でもない、これまでのことが……」
 彼はわけもなく恐縮して是非とも忘れて欲しいなどと手を合せたりする始末だつたのである。そんな想ひなどは想像もつかなかつたが、私は難なく忘れて口にした験もなかつたのに、ツマラヌ連想から不意とその時、人の名前といふほどの意味もなく、その文字面を思ひ浮べたらしかつたのである
前へ 次へ
全30ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング