議な夢のように映った。私たちの仕事部屋は酒倉の二階だったので、それに私は当時胃下垂の症状で事実は一滴の酒も口にしなかったにもかかわらず、昼となく、夜となく、一歩も外へは出ようとはせずに、面作りの手伝いに没頭しているうちには、いつか間断もない酒の香りだけで泥酔するのがしばしばだった。かなう仕儀なら喉《のど》を鳴らして飛びつきたい WET 派のカラス天狗が、食慾不振のカラ腹を抱えて、十日二十日と沼のような大樽《おおだる》に揺れる勿体《もったい》ぶった泡立ちの音を聴き、ふつふつたる香りにばかり煽《あお》られていると酔ったとも酔わぬとも名状もなしがたい、前世にでもいただいた唐《から》天竺《てんじく》のおみきの酔いがいまごろになって効《き》いて来たかのような、まことに有り難いような、なさけないような、実《げ》にもとりとめのない自意識の喪失に襲われた。眠いような頭から、酒に酔った魂だけが面白そうに抜け出してふわりふわりとあちこちを飛びまわっているのを眺めているような心持だった。そのうちには新酒の蓋あけのころともなって秋の深さは刻々に胸底へ滲《にじ》んだ。倉一杯に溢《あふ》れる醇々《じゅんじゅん》た
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