前を思わず呼んでしまったと気づいた。彼は自分の姓名を非常に嫌うという奇癖の持主で、うっかりその名を呼ばれると時と場所の差別もなく真赤になって、あわや泣き出しそうに萎《しお》れるのであった。
「厭《いや》だ厭だ厭だ、堪《たま》らない……」と彼は身震いして両耳を掩《おお》った。それ故彼は、めったな事には人に自分の姓名を明《あか》したがらず、
「ええ、もう私なんぞの名前なんてどうでもよろしいようなもので……」と言葉巧みにごまかしたが、それは徒《いたず》らな謙遜というわけでもなく、実はそれが神経的に、そして更に迷信的に適《かな》わぬというのであった。それで私も久しい間彼の名前を知らなかったし、またふとした機会から彼と知合になり、どうして生活までを共にするまでに至ったかの筋みちを短篇小説に描いたこともあり、実際の経験をとりあげる場合にはいつも私は人物の名前をもありのままを用いるのが習慣なのだが、その時も終始彼の代名詞は単に「御面師」とのみ記入していた。私はそのころ「御面師」なる名称の存在を彼に依ってはじめて知り、やや奇異な感もあって、実名の頓着《とんじゃく》もなかったまでなのだったが、後に偶然の事から彼の名前は水流舟二郎と称《よ》ぶのだと知らされた。私はミズナガレと読んだが、それはツルと訓《よ》むのだそうだった。
「この苗字は私の村(奈良県下)では軒並なんですが――」と彼はその時も、ふところの中に顔を埋めるようにして呟《つぶや》いた。「苗字と名前とがまるで拵《こしら》えものの冗談のように際《きわ》どく釣合っているのが、私は無性に恥しいんです。それにどうもそれは私にとってはいろいろと縁起でもない、これまでのことが……」
 彼はわけもなく恐縮して是非とも忘れて欲しいなどと手を合せたりする始末だったのである。そんな想いなどは想像もつかなかったが、私は難なく忘れて口にした験《ため》しもなかったのに、ツマラヌ連想から不意とその時、人の名前というほどの意味もなく、その文字面を思い浮べたらしかったのである。
 それはそうと、その頃私の身にはとんだ災難が降りかかろうとしているらしいあたりの雲行であった。
「今度、踊りの晩に、担がれる奴は、おそらくあの酒倉の居候だろう。」
「畢竟《ひっきょう》するに、野郎の順番だな。」
 私を目指《めざ》して、この怖《おそ》るべき風評がしばしば明らさまの声と化
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