泣き出したい心地で、そのまゝよたよたと河堤の松林を縫つて、家路を目差した。
 眼の先などは好くは見えないので、時々立ち止つては方角を定めながら、馬頭観音の裏手から橋の袂に現れた時であつた。
 突然、私は、私自身の方が吃驚りして、思はずバサリといふ大きな翼の音をたてゝ、飛びあがると、前にのめつて悶絶してしまつたのであつたが――突如、私の眼の先で、ぎやあツ! といふ死者狂ひの悲鳴が起つたのである。それを聞いて此方が悶絶してしまつたのだつたから仔細は判別出来なかつたが、程経て私は息を吹き返したから、兜を脱いでそのあたりを見聞すると、祠の扉が蹴破られてゐて、堂の中には、賽ころや銀貨や酒の道具が散乱してゐるのだ。そして、勿論、人影と云へば、賽銭箱の傍らに斜めに映つてゐる鎧姿の私の影より他は、皎々たる月あかりで虫の音も絶えてゐた。
「そんな因業なことを云はずと、一晩だけこの帰り路だけで好いんだから、是非ともそれを私に貸して呉れないか。」
 鎧櫃に獅噛みついた私の顔を覗き込むと、憐れな声を振り搾つて音無が掻きくどくのであつた。
「厭だ、厭だよう……」
「私《わし》はもう堪へられんのぢや、こんなシヤツの有様でこの夜道をたどり、若しや風でも吹き出したらと思ふと、私の魂は地獄へ飛びさうだ。身に、重しを付けて置かなければ、私の体なんて何処へ飛んでしまふか、解らない。怖ろしいぞ。私は、その上大金を持つてゐるのだ。舟を売らせ、網を売らせて、漸く八郎丸から取り戻した大金を……」
「……厭だよう……」
「拝むから貸して呉れ。加《おま》けに村境ひの馬頭観音の前に、風もないのに吹雪男が現れたといふ噂ではないか。いや、其奴は、おそらく番小屋荒しの強盗であらう、吹雪男と見せかけて、あちこちの番小屋を悸して酒を盗み、在り金をさらふ稀代の曲者だ。法度の丁半の賭銭だから訴へ出ることも出来ず……おゝ、白状してしまはう。丁半の連中は皆な私の手下ぢやわい、何を秘さう、鴨をくわへ込んで、濡手で粟の大儲けの上前とりの大親分は私なんだが、あの騒ぎ以来一味の者共は、吹雪男の亡霊にとり憑かれて青息吐息の有様なのだ。――屹度今宵あたりも出るだらう。私は、鎧の下に金袋を抱いてゐれば、突かうが、切らうが、平気となれる。斯うしてゐても、気が狂ひさうなんだ。一刻も早く同勢を呼び寄せて屋根の上へおしあげてしまはないうちは、何時吹き出すかも解らぬ風の神様のことだからな。おゝゝゝ、情けない、この不漁の上に、若しもこの家の屋根でも飛ばされてしまつたら……」
「おい、耳を澄して見ろ――風らしいぞ。」
「大変だあ……」
 音無は、矢庭に私に飛びかゝつて鎧櫃を奪ひとらうと猛りたつた。
「吹雪だ、吹雪だ!」
 と私は叫んだ。真実私の耳には、キクロウプスの口笛を想はせられる陰々たる吹雪の音が響くのであつた。――「これを、離して堪るものか。」
 すると音無は、
「もう駄目だ!」
 と唸つたかと思ふと、歯を喰ひしばつて仰向けに倒れた。そして泡を吹きながら、
「何でも関はないから私の上に、重たいものを載せて呉れ、飛んでしまふ/\、私の軽い体が……」
 と喚くのであつた。
 俺と同じことを云やがる――さう思ふと私は、斯んな慾深男と同病であるらしいのが酷く自尊心に関はつたが、その苦悶の切なさは同感に価するので、重い書物を次から次へ取りあげて、患者を埋めた。
 音無は、重石の下ですや/\と眠つたらしい。――改めて耳を傾けると、吹雪の音は全く消えてゐて、戸を開けて見ると、眺めも豊かな月夜であつた。
(これは、私がその村を遁走した後に初めて知つたのであるが。――といふのは私は町で育ち、つい一両年前に、この村に私の家のあることを悟つて、止むなく移り住んだ者であつたから、不思議な村の云ひ伝へなどについては全然無知の徒であつたわけであるが――竜巻村には、毎年秋の終りの頃になると、私や音無が罹つてゐたやうな精神病の流行は常例だつたといふことである。あの怖ろしい風巻に怯える父祖伝来の血統が、村人一帯に流れてゐる故に、一名「吹雪病」と称ばれてゐるこの癲癇の一種に就いては村人は余り気にも掛けぬのであつた。然し、私の父祖はこの村の住民ではなかつたのに、何うして私に、そんな病が起つたのか、私はその因を求めるのに苦しむ次第である。)
 それはさうと、外はそんなに円かな月夜であるといふのに、翻つて私の胸を窺ふと、不安の嵐がまたも新しく巻き起らうとしてゐるのであつた。――私は、やがて息を吹き返すであらう音無が、更に捲土重来の勢ひで、この宝物に飛びかゝるであらうことを深く心配しはじめたのである。
 で私は、今のうちに蔵つてしまはなければならないと決心して、手早く鎧櫃の肩紐に腕を通すと、アツシユの槍を杖にして辛うじて立ちあがつた。喰ふものも碌々に摂らず、妄想とばかり戦つてゐる私は、今更のやうに身に力がなく、酔つ払ひのやうに脚がフラフラするのが情けなかつた。然し私は、杖を頼りに、葛籠を背負つた舌切雀の悪党爺のやうに表情を歪めて、よた/\と屋根裏の納屋へ向つて行つた。手探りで廊下を曲り曲つて、漸く梯子段のあたりに来ると、納屋の扉から灯火が洩れてゐるのが仰がれた。そして争ひの声が聞えた。
「飲んで置いて、飲まないとは好くも云へた図々しさだ。」
「俺の云ふことを盗むな。泥棒奴!」
「意地きたなしの盗み飲み野郎!」
「打つ気か!」
「打つとも――」
 RとZが徳利を間にして、鼻を突き合せ、眦を裂いてゐた。
(デーモンス・ネクタアだ。夢ではなかつたのだ――俺は、たしかに飲んだぞ。)
 私は、自分を夢遊病者と信ずるに至つた。眼に見えぬ悪魔の翼にはたきのめされさうだつた。
「酒の喧嘩なら止めて呉れ。音無の欲深爺から、巻きあげて来たばかしの酒手が、こんなにあるぞ。」
 私は重い財布を卓子の上に投げ出すと、二人の男は有無なくそれを攫みとるやいなや、窓を乗り越えて梯子づたひで飛び出さうとした。
「酒を買ひに行くのか?」
「仁王門の椽の下で、音無の手下と、張り合ふのだよ。」――「賭場荒しの不思議な吹雪男が俺達の後をつけねらつてゐるので、今では彼処の椽の下に穴を掘つて、金さへあれば毎晩のこと……」
「然し君達は、吹雪男の迷信を信じてゐるのか、そして一度でも、たしかに見たことがあるのかね?」
 私は葛籠を背負つたまゝ卓子に腰を降して、意味深気に訊ねた。
「御用のお手先だと思つてゐますよ。――えゝ、たしかに、見ました。大きな鉄の兜を被つた真黒な化物で、吹雪男のこしらへではありますが、あれは勿論、町から回された探偵の変装でせう。」
「音無の手下は、然し未だ余分の賭金を持つてゐるのかね?」
「奴等のことだから何時もイカサマ術を用ひて分捕つてはゐるんだが、吹雪男が現れてからといふものは皆なその化物にさらはれてしまつて素寒貧となり、音無の親爺をはじめ一族郎党は気狂ひ騒ぎでありますよ。今夜は親爺自らが愈々出張つて、乗るか反るかの大勝負を打つ手筈になつてゐるんですが、親爺は何でも資手《もとで》に詰つて八郎丸を苛めに行つたさうですが……」
 その云ふところを聞いて見ると、吹雪男の亡霊に苛まされて音無は癲癇に罹つてしまつたさうだが、主ばかしでなく手下の者も悉く神経衰弱となつた。今日も二人の手下が、この屋根で石ならべの仕事に従事してゐたところが、二人は突然「吹雪男」の幻に魅せられて、裏の川へ転落したのである。憐れな愚者は、そんな突差の場合でも、その身が軽く宙に飛んでしまひさうな危惧を忘れず、夫々重石を抱へたまゝ飛び込んだので、危く溺死しかゝつたところを自分達が救ひあげたのである。――。
「それ、そこに寝て居ります。未だ暫くは息を吹き返さないでせう。」
 さう云つて指差されたので私は、卓子の上の龕灯を執つてその方を照して見ると、二人の男が見るも浅間しい姿で、米俵にがつちりと獅噛みついたまゝ気絶してゐた。
「ひとごとぢやありません――私達だつて今にも吹雪の夢に襲はれて発狂するかも知れないのです。こんな時分から斯う続々と病人が現れるなんてことは、さすがの竜巻村でも十七年来この方のことだといふ噂ぢやありませんか。」
「凶災の前兆でせう。今年の冬は何んな怖ろしい風巻が起ることか……おゝ、不吉なことは考へまい。早く仁王門の椽の下へ走つて、大勝負を打つて、腰に金袋をつけてしまはないと、吹雪男の餌食にされて木つ葉みぢんになつてしまふであらう……」
 RとZは、西瓜のやうな顔をして窓を脱け出て行つた。
 二人の去つて行く後姿を窓から見送つてゐると、私の胸は再び轟々と鳴りはじめた。海の遠鳴りが、疾風と化して朧夜の空をかすめながら、稲妻を巻き起して、どツと地に堕ちたかと思ふと、見渡す野面一帯は黒煙を吐いて怒濤と狂ひ出した。森の樹々が一勢に雄叫びを挙げて、凄烈な竜巻を抑へた。――家屋が、宙に浮いて割れ鐘に似た胴震ひの悲鳴を放ちながら、目眩しい回転をはじめた。
「飛んでしまふぞ/\……屋根へあがれ、米俵を家根へ運び出せ……」
 音無が夢中で駈け込んで来たのであつた。彼は更に階段を駈け降り、何うして運んで来たものか、数々の私の書物を悲愴な感投詞をたゞ胸一杯に叫びながら、扉口を目がけて階段の下から霰と投げあげるのだ。
 蝙蝠の群がおし寄せたやうに数々の書物は、不気味な翼の音をたてゝ、米俵に噛りついてゐる私達の上にバラ/\と落ちた。
 その騒ぎで息を吹き返した二人の男は、
「やツ、親爺が来たぞ。」
「金を盗んだことが露見したぞ。」
 二人は切りに飛び交ふ夜鳥の群を払ひながら、天窓の綱を引くと、それに縋つていち早く屋上へ逃げのびた。理由は少しも判らぬが、私は米俵の蔭にもぐつて葛籠の重みに命を托す思ひでガタ/\と震へてゐると、やがて音無は綱にぶらさがつて、屋上へ出ようとするのであつたが、あまりの亢奮の為に大振子と化して止め難くあちこちの壁に激しく肉体を打ちつけてゐるのみであつた。
 私は、その隙に持てるだけの書物を拾ひあげると、騒ぎをそつとその部屋に残したまゝ梯子づたひで川の端へ忍び出た。そして稍々暫く葦の影で息を殺して見ると、いつの間にか竜巻は綺麗に凪いでゐた。
「ともかく、斯んな怖ろしい村には一刻も止ることは出来ない。」
 私は震へる脚に鞭打つて、物蔭をつたひながら河下へ路を求めた。月の光が水のやうに流れてゐた。――私は、自身の影を見出すことが怖ろしかつた。影が、「吹雪男」の姿で私の眼に映るであらうことを想ふと、気絶しさうであつたから私は月の在所を行手の丘の上に突き止めて、河添ひに葦をわけて進んだ。白い光りを、まともに享けると私の五体は透明白膏《セレナイト》となつて、光りも空気も素透しに流れて行つたが、私は、杖をたよりに、背中の葛籠の重味にわづかばかりの生心地をつなぎながら、
「これさへ背負つてゐれば、疾風に見舞はれても、吹き飛されずに済むだらう。」
 と呟いた。そして小脇の書物を、その上の重石とたよつて、道を急ぎながら、クラコウ大学を追放された不良学生の挿画を思ひ比べた。彼は、白銅色の鍍金を施した鞣皮製の Macpharson(偽詩人)の仮面《めん》をかむつて、緑色の天鵝絨で覆ひをした文庫を背負つてゐたと記載されてゐるが、これらの怖れに戦きつづけて、正しく垢面蓬髪の私の容貌は、変装の要もなく、このまゝ「偽詩人」として通過するであらうと思つた。
 と行手に提灯を先きに立て、(何とまあ、見事な月夜だといふのに!)向つて来る一団の人声が現れたので私は草の中に蹲つた。
「慾の深さも結構だけれど、まさか屋根の上で勝負も出来ないからな。」
「野郎、然し、降りるだらうか?」
「背中を力一杯どやしつけて、お月様を指差せは目が醒めるよ。」
 そつと私は吾家の方を振り返つて見ると、棟の上に三体の黒法師が身動ぎもせずに腰かけてゐた。――人達は、彼等を迎へ降して仁王門の椽の下へ繰り込む同勢と知れた。仁王門は私の行手の丘の裾で深い森に囲まれてゐる。
 どうせ私は、その森を脱けて、丘を越えなければならない道程であつた。――家々は、屋根に重石を
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