に事寄せて私を誘ひ出して、復讐の水雑炊でも喰はさうといふ敵の魂胆かも知れないから、先づ、白々しく眠つてゐた素振りを示して相手の様子を見究めた後に、新しい覚悟を決めねばならない――と留意したのである。
 また私は、噂に聞く「吹雪男」の出現かしら? と気づくと、にわかに体中に激しい胴震ひと歯の根も合はない頤ばたきが巻き起つて来た。
 ――昔から、この村には怖ろしい「吹雪男」の伝説が流布されてゐた。それは恰度雪深い国の「雪女」の迷信に比ぶべき話で、風巻の季節になると、森蔭や河原のふち、或ひは池のほとりに、烏天狗に似た大男が何処からともなくぬつと立現れて、人を呼び、生血を吸つて、骨はばら/\にして風に飛ばしてしまふのである。だから、この季節が近づくと人々は、この上もなく、この吹雪の精の迷信を怖れて、昼間といへども独り歩きをする者とてはなかつた。吹雪の精は、主に孤独の男をひつとらへるのだ。
 然し、今時はもうそんな愚かな伝説を信じるやうな愚民は次第に影をひそめて、寧ろ滑稽な話として冬の夜の炉端の笑ひ草となつてゐたが、不図私は総身に粟立ちを覚ゆる位ゐの恐怖に襲はれたのであつた。――何処の家でも、冬が近づくと、門先に鎮西八郎為朝の家と筆太に誌した表札と、平家蟹の甲羅を荒武者の顔と擬して、眼口を描いて掲げるのが慣ひであつた。云ふまでもなく、それは「吹雪男」に対する威嚇の表象である。村うちで、その表札と仮面を掲げぬ家は、私の住居一軒だけであつた。突然、そんなことも、私の頭に畏怖の稲妻を閃めかせた。
 真昼間かと思つてゐたのに、外は徐ろに揺れはじめる気合ひの風を湛へた黄昏時であるのに、私は驚いた。
 ……それにしても、さつきの騒ぎは夢であつて呉れたならば、この不安の度も減ずるであらうが――と私は念じながら、声の方をすかして見ると、池のふちに真つ黒い男が、ぬつと立つて、震へてゐた。そして、Witch−elm の枝のやうに力無げな腕を風に吹かせながら、頻りと人をさしまねいてゐるではないか。
(死ぬ覚悟だ!)
 さう呟くと私は、自分ながら不自然気に見える落つきが涌いて来て、思はず脚もとにとり落してあつたアメリカ土人のアツシユの投槍を拾ひあげると、
「穂先は潰れてゐるから当つても死にはしないが、打身の傷手を与へて気絶させるには充分の力がこもつてゐるぞ!」
 と悸《おど》した。
「化物ぢやない、
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング