の男は、アツ! と叫んだかと思ふと、その瞬間、もう姿は消えてゐた。裏側の軒下を流れる悠やかな河のあたりに、巨大な物体が転落した音を私は聞いたが、その時私は瓦止めの作業用で運びあげられてゐた鉄瓶大の土塊の一つを握つてゐたものと見える。そして、そんな騒ぎは知らずに、大方二人の男の働き振りに怠惰の模様でも窺はれたのを責めでもするために、梯子を昇つて来た音無の山高帽子が、ぬツと軒の上に現はれたかと見た刹那、私の手から飛んだ濡りを含んだ土塊が、彼の面上に真正面から衝突してゐた。
そして私は、表の庭の泉水の上に巨大な怪魚がはねたかと思はれるような音を耳にしながら、即座に天窓の口から納屋に飛び降りると、綱を引いて暗闇とした。――凡そ、その活劇は一分間に足りぬ時間の中で遂行されたのであつた。――私は、早変りもどきの慌しさで、脱いだ紙製の鎧を米俵の向ふ側に丸め込むがいなや、梯子段から廊下を一足飛びに飛んで、自分の部屋へとつて返すと、扉に鍵を降して、ベツドにもぐり込んでしまつた。
……「寒いぞ/\、凍えてしまふわい、着物を借して呉れ、着物を……」
池の方角から悲愴な声が響いた。
ではやつぱり夢ではなかつたのか!
私は、徐ろに首を挙げて呟いた。――ランプが燭つてゐる! 櫓に駈け登らうと身構へたアンドリウが、屹つと天井の一方を睨んだ挿絵の頁が、鈍い灯火の光りを浴びてゐる。……不図、眼を挙げた時私は、今のあの騒ぎは夢だつたか! と思つたが――。
「おゝ、寒さで言葉も凍りさうだ。誰か来て呉れ、おゝ、怖ろしい風が吹いて来る気合ひだ。救けて呉れ……」
戸外の声は絶え入りさうな悲鳴と変つて来た。それよりも私は、あれらの事ごとが夢であつたか何うかといふ疑問が、胸の底を冷たく青蒼めさせて行つた。私は、自分の行動に自信を失ひ、白日の陽を浴びることに涯しもない不安を覚えて今にも迷妄の吹雪に昏倒しさうな、そして見る/\うちに蝋燭のやうな我身が煙りと化して行く想ひに引きずられて行つたが、救ひを求める凄惨な声が益々高く低く縷々として私の耳朶に絡まりついて来る空怖ろしさに堪へられなくなつて、凡そ、もう、さつきの、勇敢な騎士とは裏はらの臆病な幽霊のやうな脚どりで、扉をおし、そして、
「喧嘩でも起つたのかな?」
と、わざと眠さうに眼をこすりながら、雨戸をあけた。屋上の格闘が若しも夢でなかつたとすると、悲鳴
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