#ここから2字下げ]
納涼み過ぎて恥かしく成る糺川
戸口にて傘の雨きる寒さ哉
[#ここで字下げ終わり]
などあり、また尼は、修業の傍ら陶工に耽り、その句に
[#ここから2字下げ]
百ばかり急須造りて年の暮
[#ここで字下げ終わり]
ともあるが如く、今も蓮月焼と称する一種の古朴なる陶型は存せり。
尼は、常に壬生寺の地蔵尊を信じ、真言の日課をなせど、その本尊は伏見人形にして、夫も屡々代り、或は柴を戴く大原女、また或時は富士見などあり、然もかゝる本尊は、時を経れば小児等に与へられしとなん。或る人之を見て、相好円満の地蔵尊を与へしに尼は、却て之を喜ばず、仏尊は執心掛かりて、修業の妨げとなれば、他の物数奇の人に与へ給へとて、享けざりしといふ。
――などゝ読んで来ると、にはかに自分の五体はカーツと熱くなつた。自分は、怖ろしいものに殴られでもしたやうにガバと夜具を頭からかむつてしまつた。
この発作が稍収まつた時に自分は、真ツ暗な夜着の中で呟いた。……(あゝ……、これで自分は文科大学生だつたのか! 止めるんなら、今のうちだ。――まだ家人には話してないが今年の修業試験で自分は、まんまと落第してゐるのだ……反つて、それが幸ひだ、止めよう/\。そして、親父が経営してゐる山の材木工場へ行かう。)
*
あれから、もう十年に近い月日が経ち、自分は三十歳の男になつてゐる。
静かな、初秋の夜である。――この頃自分は、飲酒家になつて、いつにも斯んな静かな夜に出会つたことがない。
自分は、今机に向つてゐる。まつたくの無感想状態である。若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍らに備へてある――大体、あいつ[#「あいつ」に傍点]は何のつもりなんだらう。」
何ンにも聞えて来ない。こゝは、東京郊外の寓居で、あの波の音も聞えない。
この頃、自分は盛んに寝言を云ふさうだ。親父のやうに頭が鈍いのに違ひない。――親父の寝言も聞えない。彼は、をとゝしの春永遠に眠つた。
今夜自分は、何か書くつもりで酒をやめて机に坐つたのである。(この頃は、机に向ふ時は、昼間ばかりなのだ。)――ただ、斯うして坐つてゐるだけなら、清々と好い。
せめて、月でも出てゐると好いんだが、生憎闇夜である
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング