で、
「カル子さん!」
駄目々々、これ位ゐほんとうらしく彼女の名前を呟いても何の亢奮も起らない、あれ程自分は彼女に恋してゐるんだがな?
まつたく今、自分の頭は無である。
若し、これで自分が何か書かうとしてゐるなら、呆れた無法者である。
「笑はせるぢやないか! 机の上には、厳然と詩箋がのべてある、麗々と筆がその傍に備へてある――大体、あいつ[#「あいつ」に傍点]は何のつもりなんだらう。」と、自分は呟いて、吾ながらウロンな気がした。
(あいつは何のつもりなんだらう。)
これは往々自分が、吾家の同人から放たれる言葉の、口真似である。――云はれた当人が、口真似をしてゐれば世話はない。
「今日も、お午過ぎにカルちやんに起されたんです。」
「俺は、あいつが帰つて来てから一度も顔を合せたことがない、一体何時から帰つて来てゐるんだらう?」
カル子にいつもより少し早く起されたので彼女が帰ると自分が眠くなつて、座敷に転がつてゐると襖を隔てた茶の間で父と母が、自分の噂をしてゐた。
「六月の中頃ですよ。」
「何か、肚に不平でもあるんぢやないか?」
「年頃ですからね。」
「夜は、出掛けるかね?」
「この頃は、出掛けないやうですよ。」
「あいつの耳には入れられないが……」
「…………」
「俺は、この間、聞いて驚いちやツた! あいつは、お前、芸者買ひをするんだぜ。」
「えツ!」――「へえゝゝゝゝ!」
「厭になつてしまふなア、ハハヽヽヽ。」
「そりやア、困つた!」
「然も、あいつは余ツ程のぼせてゐるらしいんだ――先は、お前……」
「それア、さうでせうとも……」
「相手ツてえのは俺は、好く知つてゐる子供なんだ、ついこの間までお酌だつたんだがね、――万歳といふ。」
「名前が! それに、彼が――」
「うむ。」
「それやアさうと、お金はどうしてゐるんだろ。」
「大分溜つてゐるらしいよ。」
「それが気になつて、夜もおちおち眠れないんですね。」
「さうに違ひない。」
「仕方がないから俺、今日片づけて来たんだがね、あいつには知らせないように云ひつけて来た。」
「でも、直ぐに悟るでせう。」
「あいつが、ほんとうに惚れてゐるとすると困りものだな。あんな、半狂ひ見たいな奴だから、ハヽヽヽ、無理心中でもしないとも限らないぞ。」
「まさか――」
自分は、猫のやうに静かに、奥の自分の部屋に忍び込んですつかりあた
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