彼が、小説「父の百ヶ日前後」のうちに書いた岡村の叔父もゐた。叔父は、彼の方に眼を向けないで隣席の客と書画の話をしてゐた。彼は、自分が小説に書いたといふことで、とんだところに自惚れみたいな心があつて、叔父に妙な親しみを感じたり、人知れず冷汗を浮べたり、「若し、今夜、百ヶ日の時みたいな騒動が持ちあがつたつて、今度こそは敗けないぞ。」などと、運動競技のスタートに立つた時のやうに胸を踊らせたりした。葉山老医も居た。日本画家の田村も居た。また彼が、二度目の苦しい小説「悪の同意語」で、岡村の叔父のやうに強い人に書いたり、周子が口惜し紛れに彼に向つて「お前の阿母は何だツ、間男、間男!」と叫んだ当の志村仙介も居た。「清親」と、彼は嘗て書いたが、それは彼が苦し紛れに岡村の叔父と志村との印象を、ごつちやにする為めにその一つの名前を併用してしまつたのである。叔父と志村との間に、もう一人「清親」と称ふ得体の知れぬ人間が「居ない」とは彼れは思へなかつた。彼は、小説でない場合でも自分のことを平気で「彼」と称び慣れてゐた、殊にそれらの小説を書いて以来、歪んだその狭い世界と自分の生活との区別もつかなくなつてゐた。
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