モ地悪るをする為とか、不快を抱いてゐたからとか、そんなわけで遅れたわけではなかつた。わけもなく無精な日を送つてゐたばかりである。
 二三日前彼は、この日を忘れないやうに注意された母の手紙を貰つてゐた。それと一処に、高輪の彼が同居してゐる原田の主人に宛てゝ、差出し人が彼の名前で、ヲダハラから招待状が配達されてゐた。彼は、偶然それを原田の玄関で配達者から受け取つた時、母の手蹟で、れいれいと書かれてゐる書状の裏の自分の名前を見て、母に済まなく思つたり、いつかのやうに怪しく自分の存在を疑ふやうな妄想に走つたりした。――勿論、原田では誰も来なかつた。反つて、彼が出発する時には周子の母は、好く彼に意味の解らない厭味見たいなことを云つたりした位ひだつた。
 もう、少数の招ばれた客達は、大抵席に就いてゐた。彼は、父の居る時分吾家の種々な招待会を見たが、何《ど》の点から見ても斯んなに貧しく佗しいのに接した験しはなかつた。彼は、次第に怖ろしい谷に滑り込んで行く自分の佗しい影を見る気がした。
 母が、彼の代りに末席に控へて、客のとりなしをしてゐた。――彼は、止むなく母に代つて座に就き、黙つて一つお辞儀した。

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