山梨県の百姓の子で、青年の頃出京して長い間運送店の丁稚を務め、後に無頼漢の群に投じたのである。酒乱の酷い頃は連夜、吾家に帰つて乱暴を働き、その頃小さな運送店を経営してゐたのであるが、店の者などは蒼くなつて逃げ出したさうだ。そして或る夜などは、家人が警察に願つたさうだつた。警官が取り圧へに来たら、その巡査の背中をどやして気絶させたといふことを、彼は聞いた。
 ヲダハラの「清親」との争闘以来彼は、自分の腕力に自信を失ふてゐたので、そんなことを聞くと竦然とした。
「見てゐろ!」などと叫んでも周子の前より他に彼は、云へなかつた。
「そんな実際的な話ぢやないんだよ――もう少し上等な理想を云はうとしてゐるんだ。」
 彼は、さういふより外はなかつた。周子の想像以上に彼は、腕力に憧れを持つてゐた。
「お前などは眼中にないんだよ。――人類の一員として、或る自信を俺はもつてゐる。相当の自信はあるんだア!」などと云ひながら彼は、拳を固めてぬツと前に突き出したりした。
「随分、あなたの腕は細いわね。」
「嘲ける者は、嘲けろ!」
 彼は、眼を瞑つて呟いだ。――野蛮な焦燥を静める――そんな気がした。そして「理想的
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