う彼の手のとゞかないところで、古い夢のやうに煙つてゐた。
「随分、ひどい人ね――」と、うしろから咲子が浴せかけた。彼は、体が空中に吹き飛んだやうにテレた。たゞ、彼女の声を、甘く胸に感じて、一層身が粉になつた。――咲子のことを、カン子といふ名前に変へて彼は、その「散文詩」の中で、咲子が若し読んだならば酷い幻滅を感じるに違ひない程に書いてゐた。咲子と彼とは、彼が未だ周子と結婚しない頃、親同志の婚約があつた。「この金持の娘は、金に卑しい。」などとも彼は書いた。彼女は、金持の一人娘だつた。
「自らそれ[#「それ」に傍点]を得意としてゐる哀れな娘」などとも彼は書いてゐた。
 外から、そつと窺つて見ると、未だ父と母との間では、盛んに彼の名前が活躍してゐた。……――「まつたく俺は、あの時、父や母の間で交されてゐる、シン! シン! が、さ。暫く聞いてゐるうちに自分とは思へなくなつてしまつたよ――戸袋の蔭に、ぴつたりと雨蛙のやうに体を圧しつけて、彼等の悲痛な争ひを聞いてゐると、まつたく馬鹿/\しくなつたね――たしかに俺は、蛙だつたよ、あの時、シンとかといふ彼奴等の息子は、悪い野郎だな――と、蛙である俺は
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