「藤井!」と、彼は云つた。「僕ア――今、そんなことに耳を傾けちやア居られないんだ、――僕ア……、僕ア……」
「呑気だね!」
その時、隅の方でぼんやりしてゐた彼の細君は、
「チエツ!」と舌を鳴らした。彼には、聞えなかつたが、藤井は同感した。
「嫌ひなんだよ、僕アさういふ面白くない話は……」
「誰だつて好きぢやないが――」
「どうなつたつて、関はないと思へば、聞かないだつて済むだらう。」
「ぢや、それア、明日にでも仕様よ、――酒興を妨げては悪いからね。」
「中学の頃の話でも仕様か――」
「う、うん――君、何も東京に住ふ必要はないぢやないか。無駄ぢやないか? マザーもさう云つてゐたぜ。」
「さう云つてゐたか?」と彼は、酷く驚いたといふ風に眼を輝かせた。
「尤もさ――馬鹿だなア!」
「…………」
別段に彼は、逃げるといふ程の積極性もなかつたが、破産に関する話よりは、興味が動いた。彼は、盗賊の心になつて、母の家の前を、爪立つて通らなければならなかつた。……さつきから、彼は、秘かに――消えかゝりさうになる心が、時々それに触れる毎に、怪し気な光りを放つては消え、放つては消えて来たのであつた。
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