ナは名前も知らなかつた此の郊外に偶然引き移つてから、もう夏になつてしまつた。――下谷から移る時にはあんなに好く働いた賢太郎も、高輪を引きあげる時には、奥でハーモニカを吹奏してゐるばかりなので彼が独りで荷拵へをしなければならなかつた。彼は、彼の所謂、何らかの「人間的な刺激」幼稚な俗臭を欲する幼稚な男であつたから、寧ろ同所に引き止まることを主張したのであるが(如何《どう》して引き上げなければならなかつたかの経緯は省略するが。)返つて周子が己の家を嫌ひ始めたことも、幾つかのうちの一つの理由であつた。
この頃の彼は、蝉の空殻のやうであつた。酒も飲めず吾家の晩酌は倦々もした。街に出掛ける元気もなく、ヲダハラを想つても、原田のことを想つても、瞬間だけで悉く嘘のやうに消えてしまつた。たゞ、この一年半ばかりの間の……と、云ふ程のこともないのであるが、己れの痴態が、時々呆然と眺める眼の前の木々の間や、直ぐその先きには海でもありさうな白昼の白い路に、ヒヨロ/\と写るばかりであつた。昔、或る国に不思議な刑罰があつた、天井も床も四方の壁も凡て凸凹な鏡で張り詰めた小さな正立方体の部屋が重刑者を投ずる牢で、其処
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