エは、ぢやどうすれば好いんだ……えゝツ、面倒臭い、酔つてしまへ、酔つてしまへ、神経的も、感傷的も、卑しさも、そして士もへつたくれもあつたものぢやない、どうせ俺アぬすツとだア、アツハツハ……)
「ハヽヽヽ、士ですからね、私は。何時、官を退いて野《や》に帰るかも知れませんよ、ハヽヽヽ、帰る、帰る、帰る……例へば、ですよ。」
「それア、勿論、それ位ひの……」
「ハヽヽヽ、何と僕は見あげた心をもつてゐるでせう、ハヽヽ、願クバ骸骨ヲ乞ヒ卒伍ニ帰セン、でしたかね。」
「口ぢや何とでも云へるよ。」
母は、彼の調子に乗せられて、笑ひながら、明るく叱つた。斯んな調子は、母は好きなのである。斯んな言葉は、彼が幼時母から授かつたのである。母は、その幼時その父から多くの漢文を講義されたさうである。――母は、彼が斯ういふ態度をすると、タキノ家に対して淡い勝利を感ずるのであつた。実際の彼は、そのやうな母の血を少しも享けてはゐなかつた。
母は、その兄達と共にタキノ家の者、就中彼の父を「腰抜け」と呼んだことがあるが、そして彼の父を怒らせたのであるが、父以上のそれ[#「それ」に傍点]である彼は、その時内心父に味方しながらも怒つた父を可笑しく思つた。母の兄は、七十幾歳だつたかのその母(彼の祖母)に向つて、蔭で彼のことを、
「やつぱり、飲んだくれのH・タキノの子だからお話にはならない。」とか「あんな堕落書生に出入りされては迷怒だ。」とか「阿母がしつかりしてゐるから、若しかしたら彼奴だけはタキノ風にはなるまいと思つてゐたんだが、あれぢやHよりも仕末が悪い。私立大学で落第するとは、あきれた野郎だ。」とか、「その叔父は、大礼服を着た写真を親類中に配布して、常々、親類中に俺の話相手になる程の人間が一人も居ないと云つて嘆いたさうだ。」そんなことを云つて、その祖母は、長く彼と一緒に暮したことがあるので、どつちかと云へば孫のひいきで、
「それでも貴様は口惜しいとは思はないのか!」と、少しも口惜しがらない彼を、焦れツたがつた。彼の父なら、多少は口惜しがつて「俺は、フロツク・コートだつて着たことはない。あんなものは坊主が着るもんだ。」位ひのことを云ふだけ彼より増だつた。彼は、嘗て屡々この祖母の金を盗んで、故郷の村で遊蕩を試みたことがあつた。彼の父も、若い頃その父が大変頑迷だつたので屡々業を煮やして、この彼の祖母から金を借りて、秘かに村の茶屋で遊蕩に耽つたといふ話である。
隣室に周子が居るので、彼と母の間ではいつものやうに原田の噂は出なかつた。彼は、少しはやつ[#「やつ」に傍点]てやり度く思つた位ひだつた。
「僕は、たしかに阿母さんの影響を多く享けてゐる気がしますよ、この頃時々ひとりで考へて見るんだが。」
彼は、そんなよそよそしいことを臆面もなく呟いで母におもねつた。……そして、また野蛮な憤懣は、言語とうらはらに悉く心の呟きに代へた。――(ひとりで思ふね。あんまり俺はタキノ風であることをさ。……帰るといふ素振りをすると、それとなく顔色を変へるから、がつかりするよ。――若し、こゝんところに志村の畜生が来やアがつたら、何とか文句をつけて、ぶん殴つてやるから見てゐるが好い。もう敗けるもんか。)
「一度《ひとた》び、東京へ出ずれば、ですね――僕、さう、おめおめと帰つて来やしませんから安心して下さいよ。」
「お前は、仲々強くなつたから、私は安心してゐる。」
「さうとも/\。」――(フツフツフ、あべこべに煽てられてしまひさうだぞ。)
それでも彼は、ばかに好い機嫌に酔つてしまつた。……「帰る時には――ですね、僕は、その、楯に乗つて帰りますよ。」
(だが、斯んな法螺を吹いて好いかしら、来月あたりは、もう高輪の家をほうり出されるかも知れないぞ、あゝ、怖しい/\、行きどころが無くなるなんて!)
「うん。」と、母は、点頭いた。彼は、益々調子づいて、
「楯に乗るといふことは、目出度い話なんですよ、その話を、阿母さんは知つてゐる、スパルタのさ。」
「好く知らない。」と、母は、一寸薄気味悪るさうに首を振つた。――彼は、簡単に、多少の出たら目を含めた古代スパルタの歴史を説明してから、
「即ち、生きて帰るな、花々しく戦場の露となれ、生きて帰れば、汝の母は泣くぞよ――といふわけなのさ――その、楯に乗りて云々といふ一言がですなア! ハヽヽ、どうです、偉いでせう、僕は――」などと、彼は、何の辻棲も合はぬ、夢にもないことをペラペラとまくしたてた。
「日本にだつて、そんな語はいくらもあるよ、そんなスパルタなんぞでなくつたつて。」
母は、楠正行の母にでもなつた気で、他合もなく恍惚として――彼を、悲しませた。
ともかく、この夜の彼等は、異様に朗らかな二人の母と子であつた。
(お蔭膳のオミキか!)と、また彼は、これが
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