ェしたのである。だが、その度毎に、ぼんやりと「無何有の境」に居る父の姿が、止り止めもなく静かに空想された。情けなく明るい幻であつた。
……さう、想はせることが「お蔭膳」の有り難味なんだ、といふ祖父の説明を聞いても彼は、さつぱり有り難くなかつた。ボソボソと、大豆の混つた飯を噛みながら、一層不気味に海の遥か彼方の街を余儀なく想像させられることは、頼りなく物悲しかつたが、一脈の甘さに浸つて、己れを忘れる術になつたには違ひなかつた。
「ぼんやりしてゐないで、早く頂くんだ。」
想ひ描けない空想に、己れの身を煙りに化へてまでも、何らかの形を拵へようとする彼の想ひは、徒らに渺として、瀲※[#「さんずい+艶」、第4水準2−79−53]と連り、古き言葉に摸して云ふならば、恰も寂滅無為の地に迷ひ込む思ひに他ならなかつた。
彼は、盃を下に置いて、仰山に坐り直して眼を瞑つたりした。――(今の心は、まさしく幼時のそれと一歩の相違もないらしい。あの頃だつて、別段父の現実の姿を待つ程の心はなかつたぢやないか……おや、おや、また今日は、例の蔭膳の日か、お祖父さんとお祖母さんの姿が見へないやうだが、何処へ行つたのかな、畑の見廻りにでも行つたのかな、まア、好いや煩くなくつて、そのうちに早く飯を済せてしまはうや、だが相変らずのお膳で飽き/\したね、喰つた振りでもして置かうかな……ヘンリーが帰るなんてことは考へたこともない、写真で見たところ仲々活溌らしい格構だな、この間の写真で見ると、五六人の級友達と肩を組んだりしてゐるぢやないか、女も混つてゐるな、あちらではあんなに大きくなつても、あんな女の友達が学校にあるんだつてね、何だか羨しいな……阿父さんツて一体何なんだらう、俺にもあんな阿父さんとやらがあるのかね、手紙と玩具を送つて呉れる時は嬉しいが、面とぶつかつたら何だか変だらうな、やつぱり手紙のやうに優しい声を出すのだらうか、そんなものが阿父さんと云ふのか、何だかほんとゝは思へないや、それに阿父さんの癖に学校の生徒だなんて、何だかみつともないな……)
「もう、これからは務めをしくじらないようにしておくれよ。」と、母が云つた。
「……」――(お蔭膳のオミキか!)
「阿父さんが居る時分とは違ふんだからね。」
「……さう。」――(えゝと、俺は何処に務めてゐる筈になつてゐたんだつけ? 新聞社? 雑誌社? △△会社の無収入の重役? 学校? 学校だつたつけな、ハヽヽ、親父のことは笑へないや、俺だつてもう英一の親父だつたね、ハヽヽ。)
「ハヽヽ、どうも貧棒で弱つちやつたな。未だ当分お金は貰へますかね。」
「少し位いのことなら出来るだらうが、無駄費ひぢや困るよ。」
「どうして、どうして無駄どころか。」と、彼は、厭に快活に調子づいた。「研究ですからなア。」
「そんならまア仕方がないけれどさア。」
「それアもう僕だつて――」――(阿母の奴、奇妙にやさしいな、ハヽヽ、気の毒だな、こんな悪い悴で、だが、自分は如何だ、仕方のないやさしさなんだらう、フツ。嘘つき、罰かも知れないよ、こんな悴が居るのも。……一寸、一本|悸《おど》かしてやらうかな。)――「だけど勉強なら何も東京にばかり居る必要もない気がするんで、当分吾家に帰らうかなんて、思つてもゐるんだが?」
「また!」と、母は眼を視張つた。
(どうだ、驚いたらう、――大丈夫だよ、お金さへ呉れゝば帰りアしないよ、面白くもない、……志村の泥棒!)――。
「また、と云つたつて、阿父さんが亡いと思へば、さう阿母さんにばかり心配かけては僕としても済まない気がするんですもの、ちつたア……」
「直ぐにお前は、嶮しい眼つきをするのが癖になつたね、お酒を飲むと、東京などで、外で遊んだりするのは、お止めよ、危いぜ。」
「えゝ。」と、彼は、辛うじて胸を撫でおろした。
「間違ひを起さないようにね、いくら困つたつて好いから卑しいことはしないやうにしてお呉れ。貧ハ士ノ常ナリといふ諺を教へてやつたことがあるだらう。」
「…………」
彼は、点頭いた。もう彼は、悪い呟きごとは云へなかつた。自分が、卑しいことばかりしてゐるやうな不甲斐なさにガンと胸を打たれた。先のことを思へば、一層暗い穴に入つて行く心細さだつた。――「僕……大丈夫です、士、さうだ、士です、士です。」
彼は、悲しい[#「悲しい」に傍点]やうな、嬉しい[#「嬉しい」に傍点]やうな塊りが喉につかへて来る息苦しさを感じた。悲しさは、己れの愚かに卑しい行動である。母の言葉が、それを奇妙に嬉しく包んで呉れたのである。――(御免なさい、御免なさい、私のほんとうの阿母さん、たつた一人の阿母さん、阿母さんが何をしたつて私は、関ひま……せん、とは、未だ云へない、感傷は許して貰はう、不貞くされは胸に畳まう、だが、この神経的な不快
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