ツもりになんてなられて堪るかよ。」
 ……「清々と好いや!」と、彼は叫んだ。
「お酒は慎んだ方が好いよ。」と、お園と話してゐた母が振り返つて云つた。
「鬚があるのか?」と、彼は志村を指差した。志村は、たゞ笑つてゐた。
「東京も面白くないし、また此方にでも舞ひ戻らうかな、だが戻つたところで――か。旅行は一辺もしたことはなし、だから未だ好きだか嫌ひだか解らないし……」
 そろ/\危くなつて来たぞ、と彼は気付いて、ふらふらと立ちあがり、父の位牌の前に進んで、帰つてから、二度目の線香をあげた。

[#5字下げ]七[#「七」は中見出し]

 朔日《ついたち》と十五日と、毎月、夫々の日の朝には、彼の家では「蔭膳」と称する特別の膳部がひとつ、仰々しく床の間に向けて供へられた。そして、それが下げられてから、彼ひとりがその膳を前にして、しよんぼりと朝の食事を執らせられるのがその頃の定めであつた。――彼が、写真でしか見知らなかつた外国に居る父の「蔭膳」なのである。その冷たくなつた定り切つた貧しい料理を食ふのが、ひとつは妙に薄気味悪くて、往々彼は、厭だと云つて、祖父母や母に憤られた。
「頂くんだ。」
 祖父は、斯う云つて彼を叱つた。――写真で見る父などを彼は、それ程慕ひはしなかつた。――嘘のやうな気がしてゐた。
 彼は、ふと、今自分が盃を上げ下げしてゐる膳に気づいて、そんな思ひ出に走つた。定紋のついた、脚の高い、黒塗りの、四角な小さな膳だつた。
「斯んなお膳が、未だあつたの?」
 隅々の塗りの剥げてゐるところを触りながら何気なく彼は、母に訊ねた。
「どうしたんだか、それは残つてゐたんだよ――もう使へないね。」
「えゝ――。これ、蔭膳のお膳ぢやないの?」
 蔭膳といふのは、遠方へ行つてゐる吾家の同人の健康を祈る印なのだ――と、いふ意味の説明を彼は、新しく母から聞いた。
 いつかお蝶の家で父と飲み合つてゐた時彼は、その蔭膳を食はされるのが随分迷惑だつたといふ話を父にしたことがあつた。
「馬鹿|爺《ぢんぢ》いだなア!」
 父は、自分の父のことをそんな風に称んでセヽラ笑つた。
「どつちが馬鹿だか!」
 彼も、眼の前の自分の父のことをそんな風にセヽラ笑つた。――「ちやんとそれにはオミキが一本ついてゐたぜ。」
「貴様もやがて蔭膳でもあげられないやうに気をつけろよう……碌なもんぢやない。」
「何がさ?」
「あいつ等がさ……」
「あいつ等ツて誰れさ、おぢいさんのこと?」
「……フツ、つまらない。」
 ――母は、昔の話には興味を持つてゐた。彼は、今話を成るべく古い方へ持つて行くことに努めてゐた。前の晩彼は、危くなる心を鎮めて、百ヶ日の時のやうな不始末もなく済んだので、今、ホツとしてゐた。自分さへ心を鎮めてゐれば、今の吾家には何の風波もないわけか――さう思ふと彼は、こんな心を鎮める位ひのことは何でもない気がした。
 周子は、隣りの部屋で二郎や従妹達と子供のやうに話してゐた。――彼は、周子の心になつて、この母とこの悴が話してゐる光景を想像すると、他合もない気遅れを感じた。……(何しろ彼奴には、あんな事[#「あんな事」に傍点]を知られてゐるんだからな、何んな気持で俺達を見てゐることやら?)さう思つても彼は、こゝで周子に何の憤懣も覚えなかつた。――母は、彼も周子も、母のそんな事[#「そんな事」に傍点]は何も知らない気で、飽くまでも母らしい威厳を保つてゐるのだ。百ヶ日の頃には、父の突然の死を悲しむあまり彼が狂酒に耽つてゐたのだ、といふ風に母は思つてゐるのだ。
 彼は、周子を感ずると一層母と親しい口が利きたかつた。
 斯うやつて彼は、「蔭膳」を前にしてチビチビ飲んでゐると、いつの間にか自分の心は子供の頃と同じやうに白々しくなり、写真でしか見知らない若い父が、嘘のやうに頭に浮ぶばかりであつた。二十年程の父との共同生活は、短い夢のやうに消えてしまつた。
「阿父さんが早く帰つて来れば好い、なんて思ふことがあるかね。」
 時々、そんなことを聞かされると彼は、子供の癖に酷くテレて、
「どうだか知らないや。」と、叫んで逃げ出すのが常だつた。
「そんなものなんだらうな、子供なんて。」
 祖父は、さう云つて彼を可愛がつた。
 祖父が死んでから間もなく父が帰つて来たのだが彼は、少しも父になつかず、本心からそんなつもりでもないんだが、
「あんな人は知らないよ。」などと云つて、到々父を怒らせたといふ話だつた。
 今、彼は、それと同じ言葉を放つても、そんなに不自然でもない気がした。
「阿父さんが帰つて来るまでは、これは続けるんだよ。厭だ、なんて勿体ないことを云ふものぢやない。」と、祖父から命ぜられて、何時帰るか解らない者の為に何時までもこれを食はされるのぢや堪らない――などと彼は思ひながら、情けない気
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