Vしい口癖になつたかのやうに呟いだ。――たゞ、惨めなことには彼の心は、子供の頃のそれのやうに容易く「寂滅無為の地」に遊べなかつたのである。腕を挙げ、脚を蹴り、水を吹きして身を踊らせるのであつたが、たゞ見たところでは弱々しく邪魔にもなりさうもなく漂ふてゐる多くの水藻が、執拗に四肢にからまりついて、決して自由な運動が出来ないのである。岸から傍観してゐる人は、一体彼奴は、あんなところで何を愚図/\してゐるんだらう――と、訝かるに違ひあるまい――彼は、そんなに、山蔭の小さな水溜りで水浴びをしてゐる光景を想つたりした。
 ……(もう少し酔つて来ると危いぞ、どんな失敗をしないとも限らないぞ――。……折角のところで阿母と、飛んだ争ひをしてしまつては、何んにもならないからな……第一、東京へ帰つてからの暮しが出来なくなる……あつちには、あつちで、あの怖るべき周子の母が、裕福になつて帰るべき自分を、空腹を抱へて待つてゐるのだ。母だつて、自分が今まで斯うして、例の鬱屈とやらを――、ツマラナイ、馬鹿なことだが――卑怯に我慢してゐればこそ、此方に秘密を――ヘツ、かくさないでも好いのに、が、まアそれも好いさ――悟られまいとして、やさしくもする、気味の悪い手紙も寄す……凡て、自分が知らん顔をしてゐればこそである。これで若し自分が、いつか周子から浴せられたやうな雑言を、一寸でも洩したならば、もうお終ひだ。ぢや、どうとでも勝手にしたら好いだらう――と、斯う突ツ放されたら、俺には訴へどころがないんだ。親爺は、ゐないし――か! 周子の阿母にでも訴へるのか! そして俺は、どうする、みすみす阿母に棄てられて、どうなる、……阿母だつて、悲しいだらう、俺だつて、悲しからうさ、これでも。――阿母だけは、お前の世話にならないでも好いやうにして置く――と、常々アメリカ勘定の親父は、俺に云つて、アメリカ勘定嫌ひの俺の顔を顰めさせたが……成る程なア! 親父が死んだら、屹度俺が彼女に反抗心を起すだらうといふ懸念があつたんだな! 大丈夫だよ、ヘンリー阿父さん、あなたのお蔭で私は、金が無一物になつてしまつたんだから、うつかり阿母に反抗心なんて現はせやしないよ、ハヽヽ、うまくいつてゐやアがらア、ヘンリーさんの計画が、失敗に終らなかつたのは、これ位ひのものかね。だが、阿母の方だつて、もうそろそろ欠乏らしいぜ……でも、好いよ、――安心し給へ、ヘンリー……と、斯う彼に呼びかけたいものだな。あなたの何時かの言葉を一寸拝借して見る――「俺の真似をされては困るぜ、シン! 貴様には、阿母を責める資格はないんだよ。」
「そんなことは解つてゐるよ。」
「縦令、阿母にどんな落度があらうとも――だぜ。」
「変なことばかり云ふなア、阿父さんは。どうしたのよう。」
「お前が阿母に逆らへば、何と云つたつて俺ア阿母の味方だぜ、ハヽヽヽ。」
「ハヽヽヽ、羨しいや、お蝶が嫉妬《やきもち》をやきはしないの?」
「好い気なもんだなア、俺は、さア!」
「まつたくだね、――変な女! お蝶だよ、阿母さんぢやないよ。」
「馬鹿ア、そんなことはどうでも好いよ。自分は、どうでえ!」
「ハヽヽ、周子かね。」
「ハヽヽ、周子さんと、トン子さんかね。」
「ハヽヽ、困つたね。」
「英一は、いくつだ。」
「三つさ。」
「ぢや俺が、丁度貴様と別れて外国へ行つた年だな!」
「あゝ、僕も行きたい、僕も行きたい!」――(忘れやアしないよ、阿父さん、阿母は、屹度大切にしますよ、ハヽヽヽ――)
「阿母さん! 僕は、今までだつて別段贅沢をしたわけぢやないが、この先きだつて……、ホラ、よく岡村のおばアさんが云つたこと、あの……その、人間は――だね。」と、彼は、ゴクリと酒を飲んで「人間は、その――乞食と泥棒さへ……」と、云ひかけた時、胸が怪しく震へた。「……さへ、しなければ――さへ、しなければ、でしたかね? フヽヽヽ!」
「さうとも。」
「……さへ、しなければ、何の人に恥ずるところはない、ボロを纏はうとも、でしたな。」
「乞食と泥棒と、そして――」と、母は、一寸と気恥し気に笑つた。「親不孝と――」
「あゝ、さう、さうその三つでしたね。」
 それだけかな? などと思ひながら彼は、荒唐無稽の幼稚な例へ話を笑ふやうに、笑つたが、喉を落ちて行く酒の雫に、雨だれのやうに冷く胸を打たれた。……「味噌と醤油と米と、そして薪さへあれば――とも云つたね、岡村のおばアさんがさア?」
「戦争の時の話だらう。」と、一寸母は煩ささうに云つた。
「さうぢやないよ、普段でも、だよ。それだけあれば不自由はない――とかさ。」
「そんなことを知つてゐながらお前は、どうさ?」と、母は苦笑した。
「直ぐさう云つてしまつてはお終ひだよ。僕は、何もそんなおばアさんの言葉に感心して居るわけぢやあるまいし、寧ろ、
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