周子は、気の毒さうに云つた。建具が一つも入つてゐない部屋なのである。この六畳一間だけの二階だつた、彼の今度の芝・高輪の書斎は――。加けに一方が椽側で、他の二方には夫々一間宛の窓があいてゐた。椽側の敷居には、雨戸代りの硝子戸が入つてゐたが建てかけて三年も放つて置いた家で、その間には地震があつたし、隙間だらけだつた。硝子戸と天井との間には、小さな板戸が入るやうになつてゐるのだが、板戸は入つてゐないので、幕が張つてあつた。西の窓にも北側の窓にも幕がピンで止めてあつた。その幕には、賢太郎の手で、得体の知れない模様が描きかけてあつたり、縫取りが仕かけてあつたりした。――風があたる度に、三方の幕が帆のやうに脹れたり凹んだりした。これでも賢太郎が懸命になつて、壁に雑誌から切り取つた名画を貼つたり、徳利のやうな花瓶に水仙を活けて、床の間に飾つたりしたのである。
「困るはね!」と、あたりを見回して、更に周子は云つた。
「いゝよ、いゝよ、関はないよ。」
 彼は、さう云つて行火の上に頬を載せた。行火といふものにあたつたのは、この冬が彼は初めてだつた。こゝに来て以来彼は、午後の二時頃寝床を逼ひ出て、それから夜おそくまで斯うして、この部屋に丸くなつてゐた、ドテラを二枚も重ね着して。――また、バカに寒い日ばかりが続く正月であつた。
 天気が好いと彼は、三方の幕をはらつて、丸くなつた儘外の景色を眺めた。――南側は、西国回りの旅人が初めに詣でる大きな仏閣の、厨房に面してゐた。北側の窓は、腰高だつたから、坐つてゐると青空と、眼近かの火見櫓が見ゆるだけだつた。そこには、いつでも黒い外套を着た見張り番が、案山子のやうに立つてゐた。彼は、時々筒形の遠眼鏡《とうめがね》をトランクから取り出して、射撃をする時のやうに一方の眼を閉ぢて、見張番の姿を眺めた。ものゝ好くない、加けに昔の眼鏡だつたから、肉眼で見るよりも反つてボツとした。いくらか対照物が大きくは見へたが、線が悉く青地に滲んでゐた。如何程視度を調節しても無駄だつた、それでも彼は熱心にそんなものを弄んだ。はつきり見へるよりも反つて興味があるんだ、などゝ呟いだ。西側の窓は、キリスト教会堂の裏に接してゐて、朝からオルガンの練習の音が聞えた。それが時々俗曲を奏でた。仏閣からは、御詠歌の合唱が聞えた。
 少しでも風が出たり、曇つたりして来ると直ぐに彼は、立ち上つて三方の幕を降してしまつた。
「これぢや勉強が出来ないでせう。」
「いや、そんなことは心配しないでもいゝさ。」
 彼は、さういふより他はなかつた。勿論、この寒さに、この吹きツさらしの二階などに籠つてゐることは、どんなに彼が「アブノルマルの興味」を主張すべく努めても、第一寒くてやり切れないのだが、まア仕方が無いとあきらめたのである。
 階下は、割合に広かつた。尤も、この二階と、下の二間は古い母屋にくツつけて、三年も前に建てかけたのであるが、その儘で完成させなかつたのである。母屋の方だつて、地震に遇つた儘何の手入れも施してなかつたから、唐紙は動かず、壁は悉くひゞ割れてゐた。彼が、周子と結婚した当座、半年ばかり二人だけで母屋の方に住んだ。さうだ、三年ぢやない、建増しをしかけたのはその時分のことだつたから。――英一は、もう四歳になつてゐる。
 その頃、この家が彼の「名儀」のものであるといふことを彼は、たしか周子から聞いて、名儀とは何か? と思つたことがあつた。
「抵当なんですツて!」
「へえ、シホらしいね。だが俺の名儀だなんて怪《おか》しいぢやないか?」
「さうね。」
 彼は、こういふことに就いても相当の思慮があるんだといふ風に云つた。「石原が金を持つて来たのは、ぢや、それだな? 三千円――此方が欲しいや。」
「ほんとにね。」
 間もなく彼女の一家が、大崎からこゝへ移つて来た。彼は、彼女の母と(何でも彼女の母が彼のことを、ケチだ! と云つたり、威張つてゐる! と称したり、彼の母のことを、息子に対して冷淡だ! などと彼を煽てるやうに云つたり、一度位ひ来るのが当り前ぢやないか! と批難したり、彼の父が、一度訪れた時、大変景気の好さゝうな法螺を吹いて、泊りはしなかつたのに「さんざツぱら酒を飲んで」、帰る時に小供に小使ひ一つ与へなかつた、「田舎の人は、やつぱり呑気だねえ、お前エらお父ツちやんは、屹度永生きをするだらうよウ、お前エは幸福《しあはせ》だよウ。」などと云つて、遠回しな厭味を述べたり――)、醜い云ひ争ひをして、ヲダハラへ移つてしまつた。ヲダハラではまた彼は、自分の両親と醜い云ひ争ひをして、間もなく伊豆の方へ逃げ伸び、山蔭の、畑の見張り番でも住みさうな茅屋に一年も住んだ。
 父が死んでから間もなく、彼が東京・牛込に間借りをしてゐた頃、周子の母が来て、
「ほんとうに、親類ほど
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