頼みにならないものはない、家《うち》のお父さんはお人好しだから仕方がない、あゝ、厭だ/\。」などと云つて帰つたので、どうしたんだらう? と、彼は周子に訊ねた。
「憾んでゐるはよう! うちのお母さんが――」
「貴様も好く似てゐるな、下品な云ひ回し方が!」と、彼は怒つた。
「高輪の家が競売になるんですツてさ!」
周子も憾むやうに云つた。
「フヽン!」
住ふところが無くなつては、そりやアさぞ困るだらうな! と、彼は思ひもしたが顔色には現さなかつた。
「訴へられたんですツてさ! その訴へ人は、タキノ・シン……」と、彼女は、彼の名前を云ひかけて、笑つた。
「へえ!」――「好い気味だア」と、彼は云つた。何となく彼は、かツとして続けて憎態なことを二三言云つたが、何だか彼は怪《おか》しかつた。――可笑しくもあつた。
彼が、その次にヲダハラに帰つた時母が、
「原田(周子の実家の姓)の代理の川崎といふ人から、お前に宛てゝお金が来てゐる。」と云つて、二百円渡した。――彼と母とが極端に仲の悪い頃だつた。
さういふ種類の書きつけは、見ても彼にはわけが解らないので手も触れなかつたが、母の説明に依ると、高輪の家が競売になつて、第何番目かの抵当保持者である彼に、返済された金なのださうだつた。
「あそこまで、そんなことになつてゐたのかね!」
「どうだか、僕だつて知らなかつた。」
「だつて名前が……」と、母は、変に静かな調子で変な笑ひを浮べた。
「僕の名前なんて、どうせ普段から滅茶苦茶なんぢやありませんか――好い面の皮だア長男だなんて!」
彼は、如何にも迷惑さうに不平を洩して、世俗的な常識に長けてゐる者らしく眉を顰めたりした。
「そんなことを云ふものぢやない。」と、母も云つて顔を曇らせた。その色艶のあまり好くない、だが眼立つほどの皺もなく、そして干からびてはゐない容貌を見ると彼は、極めて非常識な反感をそゝられた。――そして彼は、また死んだ父の顔を徒らに想ひ描いたりしながら、何といふわけもなくバカ/\しい気がして――(フツフツフツ……。馬鹿な連中ばかしが、好くも斯うそろつたものだ!)などと思つたりした。
「いくら僕が、仕様のない人間だからと云つたつて、ですね。」
彼は、胸を拡げて開き直つた。(何か、ひどく尤もらしい文句がないかな? 何か? 何か? ――)――「それほど仕様のないことなんて考へて見れば、別段何もありやアしないや。普通の息子なんだ、自分で自分のことを仕様のない人間だ! と、自分に思はせるやうにしたのは……」
「お黙り!」
「…………」
「一体お前は何のつもりなの? 如何いふ了見なの? ――幾つになるまで親を瞞すつもりなの?」
「瞞す?」
「やれ、学校の研究科へ通つてゐるの、新聞社に務めてゐるの……大うそつき奴!」
「……」――何アんだ、そんなことか! と彼は思つた。「えゝ、えゝ、どうせ大うそつきですよう、だ。」
斯んな馬鹿気た争ひをしてゐるよりも彼は、思はぬところで、飛んだ儲け物をしたので、上の空でその金の使ひ道を考へてゐた。――(面白い/\。俺の名前が、俺の知らない間に役に立つてゐるなんて、一寸不思議な気がするぢやないか。それにしても親父が死んで以来、こんなウマイことに四度も出遇つてゐるぢやないか、ひよツとすると俺の知らない間にも斯ういふ儲けがあつたのかも知れないぞ? まアいゝや、そこで…… チエツ、バカ気てゐらア、これツぽツちの金で、想像をたくましくするなんて――)
彼は、父が死んで以来、例へば金に就いて考へるにしても、その額面が急に大きくなつてることが可笑しかつた。
「如何いふ了見なの?」
「了見ツて?」――彼は、今母と何か云ひ争ひをしかけてゐたのを忘れてゐた。
「お前は、一体何なんだい?」と、母は努めて落着いて訊きたゞした。
「煩いなア! 私は、私ですよ。」
「幾つだい、年は?」
「親の癖に、子の年を知らないの?」
「知らないよ。」
「二十九歳。」
彼は、さう云つて悠々と煙りを吹いた。
「そして何なの?」
「幾度同じことを聞くんですね! 僕は、何でもありませんよ、――人間だよ、二十九歳の――」
彼は、庭に眼を放つて、ピーピーと口笛を吹いた。そして火鉢の傍に投げ出してあつた金を、徐ろに懐中に容れた。――(お蝶にやつてしまはう。)さう思つて彼は、清々としたかと思ふと、直ぐまた斯んなことを考へた。(お蝶の奴、益々俺を尊敬するだらうな、何と云ふだらう、お光を呼んで、二人でお辞儀をするだらうな、ホツホツホウ。)――彼は、他人から感謝の礼などされたことがなかつたから斯んな空想が殊の他物珍らしかつた。――(突然なんだから一層彼女等は喜ぶだらう。よしツ、そこで一番! お光が大きくなつたら、一番俺が妾にしてやらう、と、斯う見るからに信頼されさ
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