ゥ称科学者が、顕微鏡下に、人畜に害をなす怖るべき病菌を見て、思はず見震ひを感じたのであるが、大人であることゝ、研究家であつたことゝを顧みて、擽つたく身震ひを堪へながら、唖然として、厭々ながら眼鏡を眺いてゐる愚かな見得坊に過ぎなかつた。無能な衒学者に過ぎなかつた。カラクリの眼鏡を覗いてゐる児童に過ぎなかつた。また、何の得も取れない詐欺師にも等しかつた。――まつたく彼は、こゝで厭な顔を現さずに凝つとしてゐることは、如上の形容でも足りぬ程、随分苦しかつたのである。
「なア、タキノや――」
「アツハツハツ――まつたくだなア。」
いくら程あれば、以前の運送店を取り戻して、あんな働きのない夫などは頼まずに――云々といふ、彼女は、癖になつてゐる愚痴を滾して、夫を批難しはじめてゐた。――母から遠ざかれば、いくらか彼は救かつた。
「それツぽツちのこと、何とでもなるさ。」
何となく彼は、吻ツとして、ほんとに、それツぽつちならといふ気で、何の成算もなく
「俺がやる/\。」などと、景気好く叫びながら、また呵々と笑つた。――讚同しないと、怖い気もしたのである。
彼は、斯んな場合に限らず、一寸感情がもつれると、直ぐに己れの姿を見失ふ性質が、幼時からあつた。無神経な物体になつてしまふ病気を持つてゐる。
斯んな嘘のやうな経験がいくつもあつた。――幼時、発狂してゐた叔父に手を引かれて(彼には、叔父が狂人といふことが好く解らない程の幼時だつた。家人にかくれて叔父が彼を伴れ出したのださうだ。)裏の山へ散歩に出かけた。父の直ぐの弟で、彼が父のやうに慕つてゐた叔父である。細いことは忘れてしまつたが、何でも叔父が、可成り高い崖の上から、下の畑に、俺も飛び降りないか? と誘つたのである。低いやうに見えたので、叔父に続いて、飛んで見ると、案外に高くつて、彼は、脚が地についた刹那は平気だつたが、一寸間をおいた後に率倒した。――二十二三才の頃、父と一処に、初めてミス・Fを訪れた時、父はFの父と用談をしてゐるので、快活なFは彼を、自分の部屋に誘つた。いくらFが、話しかけても彼は、アセるばかりで答へることが出来なかつた。彼女は、おぼつかない日本語を用ひるのであつたが。――彼は、彼女の薄着の下に躍動してゐる鹿のやうに明るい四肢を想像して、自分が彫刻家でないことを後悔した。
彼が返答に困つてゐると、彼女は、彼の顔を
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