うむ、あまり馬鹿にして貰ひたくないものだ。」
「いつ、あたしが、あなたを馬鹿にしましたよ……ひがみ!」
「それが嫌ひなんだよう。」と彼は、叫んだ。さう云つた彼の声は、従令どんな種類のものであらうと「素晴しく大きな希望に炎えてゐる」人の声ではなかつた。
「見てゐろ!」と彼は、云つた。
「ちつとも怖くはない。」
「手前えんとこの奴等は……」
 見てゐろ! と、彼が云つたのは、たつたそれだけの意味だつた。漠然とした大きな希望に炎ゆるのは快い――折角の夢が直ぐに斯んなところで浅猿しく崩れた。
 今までなら彼女は、自分の家の悪罵に会ふと立所に噛みついて来たのであつたが、次第にマンネリズムに陥つた今では、何と彼が悪態をつかうとも、平気になつてしまつた。――「あなたが、いくら口惜しがつて、暴れ込んだつて、家《うち》のお父さんの方が余ツ程強いからね。賢太郎だつて、あなたよりは力があるから……」
 暴れ込むぞ! などと彼が云つた時には、彼女はそんなに云つた。
「何だ、あんな爺! 俺よりもずツと脊が低いぢやないか!」
「でも強いのよ、――五人力なんですつて。」
 彼女の父は、以前に酒乱の癖があつたさうだ。山梨県の百姓の子で、青年の頃出京して長い間運送店の丁稚を務め、後に無頼漢の群に投じたのである。酒乱の酷い頃は連夜、吾家に帰つて乱暴を働き、その頃小さな運送店を経営してゐたのであるが、店の者などは蒼くなつて逃げ出したさうだ。そして或る夜などは、家人が警察に願つたさうだつた。警官が取り圧へに来たら、その巡査の背中をどやして気絶させたといふことを、彼は聞いた。
 ヲダハラの「清親」との争闘以来彼は、自分の腕力に自信を失ふてゐたので、そんなことを聞くと竦然とした。
「見てゐろ!」などと叫んでも周子の前より他に彼は、云へなかつた。
「そんな実際的な話ぢやないんだよ――もう少し上等な理想を云はうとしてゐるんだ。」
 彼は、さういふより外はなかつた。周子の想像以上に彼は、腕力に憧れを持つてゐた。
「お前などは眼中にないんだよ。――人類の一員として、或る自信を俺はもつてゐる。相当の自信はあるんだア!」などと云ひながら彼は、拳を固めてぬツと前に突き出したりした。
「随分、あなたの腕は細いわね。」
「嘲ける者は、嘲けろ!」
 彼は、眼を瞑つて呟いだ。――野蛮な焦燥を静める――そんな気がした。そして「理想的
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