、あきれて呟いだのさ。」
「お前は、そりや呑気だつたらうよ、さぞ面白かつたらうね。」
「面白くはないさ、そんなありふれた騒ぎなんて……」と、彼は、退屈さうなセヽラ笑ひを浮べた。
 これは、彼の先程からのあやふやな自問自答である。相手は、あの「名前」である。
「だが、君。」と、彼は感傷的な声で相手を呼びかけた。――「阿母とは仲良くして呉れね、特別に親孝行なんて仕なくつても好いが、普通の息子らしくさ……それだけのことも俺には出来さうもないんだ。」
「お前は、何かにこだはつてゐるんだな、倫理的な立場で――」
「――憎んではゐないさ。親だもの、たしかに母親だもの、――父親ツてエのは、これで疑へば疑へないこともないが、母親だけは疑へないぜ。周子が、子供を生んだ時、親父が沁々と云つたぜ――母親には、自分の子供を疑ふ余地がなからうな、たしかに自分の子だからね――だつてさ、馬鹿だね。……俺、あの時、一寸厭な想像をして、思はず親父の Bawdy appearance を覗いたぜ。」
「馬鹿だなア、お前こそ――」
「そんな話は止さう。ともかく阿母のことは頼むぜ。」
「よし/\、俺が引きうけた。」
「名前」は、斯う云つて見得を切つた。――。
「安心しろよ、何だい、べそ/\するない、ぬすツとらしくもない。」
「阿母だつて、寂しいだらう、親父にはさんざ憂目を見せられ、そして俺が、俺が……俺は、阿母は好きなんだ。顔だつて、心だつて随分俺は、阿母に似てゐるぢやないか!」
「よし/\もういゝ/\、お前は、名前のない人間なんだから愚痴を滾す必要はないんだよ。」
「それでも、いゝか? ほんとうに。何かにつけて不便なことがありやしないかね。」と、彼は絶へ入りさうな声で念をおした。
「そんなことは、俺たちの狭い世界だけの話だ、お前は独りでさつさと歩いて行つて関はないよ。」
「いよう! 君は、随分、度量が拡いんだね。――いや、有り難う、ぢや、失敬するぜ。」
「うむ。」
「ぢや、さよなら。」
「早く行けよ。」
「今、行くよ――握手しようか。」
「そんなことは御免だ。さつさと行つてくれ、少し焦れツたくなつて来た。」
「俺、何だか行くのは厭になつた、急に。」
「女のやうな奴だな。」
「厭だ/\、俺ひとりぢや、やつぱり寂しいや、せめて君が……」
「それぢや何ンにもなりやアしない……」
「何ンにもならなくなつても好い
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