六

 翌年のシーズンに久保は、
「美奈子夫人の肖像」と題する作品を発表した。
 美奈子は久保の作品が出来上つてから間もなく、平凡な結婚をして東京を去つてゐた。で、後から久保は画題に「夫人」と挿入したのであつた。
 展覧会が開かれると美奈子が、久保に電報を寄せて、上京を知らせた。
 或晩美奈子の実家に久保は招待されて、晩餐の後に、美奈子と二人になつた時、
「この肖像画は僕は、差しあげるわけにはゆかないのです。」
 突然そんなことを云ひ出した。
「何うなさつたの?」
 久保の口調がとても常軌を脱れてゐるのに気づいて美奈子が、悲しさうに訊ねた。
「もう僕には、今後、あなたの肖像画が描けないであらうから……」
「いゝえ、これは何うしても妾が――」
 美奈子は久保の言葉をさへぎつた。
 二人は、一枚の肖像画を間にして何時までも争ひの言葉を続けてゐたが、遂々《とう/\》久保は断念して、
「では、あきらめます。」
 と云つたかと思ふと、ぱつたりと卓子《テーブル》に突ツ伏してしまつた。
「久保さん、許して下さい。」
 美奈子は、久保の様子を見ると堪へ切れなくなつたかのやうに息苦しさうに、わけもな
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