「でも、あなたは、これから稽古へいらつしやるのでせう?」
「お稽古なんて何うでも好いわ――無論休みますわよ。ね、何うして今日、突然に……好くお解りになりましたのね。」
「えゝ――お茶の水から、あなたと一緒の電車に乗つて来たのです。……いや、僕はあそこで、あなたのいらつしやるのを待つてゐたのです。」
「まあ……妾、ちつとも気がつきませんでしたわ。」
 いつか二人は、さつき久保が美奈子に初めて言葉をかけたあたりのところまで歩いて来てゐた。
「それあさうでせう。僕は、これまでだつて何度とも数へきれぬ位ゐ……あの駅で、あなたにお目にかゝつてゐるのです。……いや、彼処で、そつとあなたを待合せて、同じ電車に乗つて……」
「まあ――。ぢや、何うしてそれまで妾にお言葉をかけて下さらなかつたの?」
「それが、何うしても出来なかつたのです、でも僕はそれで満足してゐたのですが……」
「酷いわ……」
「それが、今日のあなたの手紙を読んで……僕は決心して……」
「ぢや、妾の手紙をやはり、あなたは読んでゐて下すつたのね。妾は、どうせお読みにならないか知ら――位ゐにしか思つてゐませんでしたのよ。それでも、何うしても時々あなたにお手紙を出さずには居られませんでしたの――」
「どうも有り難う。――僕には手紙は書けないんです。――その代り……」
「でも妾、そんなこと夢にも考へなかつたのに――幸福だわ。」
「……(階段)の人物は、あなたの想像通り、あれはあなたの――僕に映つた映像でした。僕は無意識にあれを描きました。今日、あなたの手紙を見て僕は、吾ながらはじめて気づいたわけです。あなたの映像はそれほど深く僕の胸底に沁み込んでゐたわけです。でも僕は、眼近くお目にかゝるのは今日がはじめてゞす。斯うして、お目にかゝつて見ると、あの画中の人物は一層あなたに似てゐるといふことが、僕自身にはつきり解つて来るのです。不思議でなりません。架空のつもりで描いたものが、それほどの結果になつてゐたことを思ふと僕は或る運命感さへ抱きたくなります。」
 久保は、このことに話が触れはじめると今迄の遠慮深い態度はすつかり姿を消して、自信に充ちた声で話すことが出来るのであつた。
 二人が久保のアトリエに来たのは、夕暮時であつた。――向ひ会つて椅子に腰を降しても、未だ彼等は「階段の人物」に就いての奇蹟的話材に興奮してゐた。

     六

 翌年のシーズンに久保は、
「美奈子夫人の肖像」と題する作品を発表した。
 美奈子は久保の作品が出来上つてから間もなく、平凡な結婚をして東京を去つてゐた。で、後から久保は画題に「夫人」と挿入したのであつた。
 展覧会が開かれると美奈子が、久保に電報を寄せて、上京を知らせた。
 或晩美奈子の実家に久保は招待されて、晩餐の後に、美奈子と二人になつた時、
「この肖像画は僕は、差しあげるわけにはゆかないのです。」
 突然そんなことを云ひ出した。
「何うなさつたの?」
 久保の口調がとても常軌を脱れてゐるのに気づいて美奈子が、悲しさうに訊ねた。
「もう僕には、今後、あなたの肖像画が描けないであらうから……」
「いゝえ、これは何うしても妾が――」
 美奈子は久保の言葉をさへぎつた。
 二人は、一枚の肖像画を間にして何時までも争ひの言葉を続けてゐたが、遂々《とう/\》久保は断念して、
「では、あきらめます。」
 と云つたかと思ふと、ぱつたりと卓子《テーブル》に突ツ伏してしまつた。
「久保さん、許して下さい。」
 美奈子は、久保の様子を見ると堪へ切れなくなつたかのやうに息苦しさうに、わけもなしに謝りの言葉を口走つてゐた。そして彼女は、新しい自分の肖像画を濡れた眼で見あげた。――この悲劇的な突飛な光景が、美奈子の胸にも少しも不自然な感じを呼び起さないのが、彼女は、止め度もなく悲しかつた。
 久保は美奈子が縁家先へ戻つた後にも、其処の家と親しくなつて、屡々訪れてゐた。美奈子の弟と友達になつた。
 勿論持ち帰つたものとばかり思つてゐたあの肖像画を、久保は或日其処の応接間の壁に見出した。
「何うして姉はこれ[#「これ」に傍点]を持ち帰らなかつたのかと家の者は皆な不思議がつてゐるんですがね。」
 美奈子の弟が、それを指差して、久保に云つた。「自分の家に飾つたら好さゝうなものなのに、此間ハガキで、当分其方へ預けて置くからなんて云つて寄越したんですよ。買ふことが出来るまでは、持ち帰るのが気にでもなつたんでせうが――」
「買ふなんて……そんなこと!」
 そして久保は、あかくなつて、
「大方御不満でゝもあるんでせう。」
 と、さりげなくそんなことを云つて笑つたが、内心、彼女に溢るゝばかりの感謝を覚へてゐた。何故、彼女が――誰のために、これを此処に残して行つたか。――その美奈子の心持が久保に
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