すのであつた。そして、それとなく階段の方を注意してゐるのであつた。
雑誌に目を落してゐた久保が、不図顔をあげると、直ぐ眼の先に何時の間に現れたのかビロードの半オーバを着た、美奈子の後ろ姿が立つてゐた。
それと殆ど同時に中野行の電車が到着して、美奈子が乗り込んだので久保も慌てゝ後を追ふた。
三
電車の中では、美奈子は片隅の空席を得て腰を降すと傍目もふらずに、抱へてゐる楽譜を開くと、爪先で微かなタクトをとりながら切《しき》りにそれに目を配つてゐるのであつた。
久保は反対側の出入口の扉《ドア》にもたれて、胸をときめかせながら彼女の様子を見守つてゐた。
「それにしても、好く、あの画の人物が自分に似てゐるなどゝいふことを彼女は気づいたものだ。」
時々美奈子は顔をあげて、頭の中で楽譜を誦《そらん》じてゐるらしく、正面を向く時、久保は、はつきりとその容貌を見ながら、沁々と呟いだ。
「さう云はれて見れば、たしかにあの人物の容貌は美奈子であつた!」
画中の人物が裸婦であることなどに拘泥もしないで、あゝ云つて寄こした彼女を見ると、久保ははじめから美奈子をはつきりと対象にしてかゝつたのだつたならば到底裸婦の姿には描けなかつたらう――と思つた。
何時もは新宿まで来ると下車してしまふのであつたが、いよ/\東中野まで来てしまつた。
美奈子は譜本をとぢて、落着いた脚どりで降りたつて行つた。――久保は稍おくれて、見失はぬように努めながら追ふて行つた。
踏切りで、汽車が来たので稍暫くの間降車客は行手を塞がれたが、久保は群集の中で彼女に声をかけるのには余りに臆病過ぎて、直ぐその傍らに立ちながらも、凝ツと、知らぬ気な素振りを示して居ずには居られなかつた。
陸橋を渡つて、杉垣にはさまれた屋敷通りに来た時であつた。
久保は、五六間もおくれてゐる間隔を、思ひ切つて駆け寄り、
「美奈子さんぢやありませんか?」
と、真ツ赤になつて声をかけた。
四
美奈子は立ち止まツて、振り向くと、其処に見知らぬ男を見出したので、不思議さうな、そして稍憤ツとしたかのやうな顔をして、
「あなたは――?」
と問ひ返した。
久保は激しく震へる胸を辛うじて怺えながら、
「僕、エカキの久保です。」
と帽子をとつて云つた。
「…………」
美奈子は、一層不思議さうな眼をして久保の顔を見返した。
久保は、何うして好いか解らなくなつて帽子を握りつぶしながら、アハヤ逃げ出さうかといふほどの心構へを抱いた。
「お人違ひぢやございません?」
美奈子は素気なく答へて歩き出しさうになつたので、久保はもう恥のために弥々《いよ/\》堪らなくなつて、
「失礼しました。飛んだ人違ひをしました。」
と云ひ終るがいなや、後も振り向かず元の道を小走りに駈け戻つた。――何といふ軽卒な真似をしてしまつたことだらう、あゝ! 若しかすると、あの娘は此方を不良青年と間違へて(当然だ!)交番に電話を掛けるかも知れない――久保は、後悔と同時にそんなことを思ふと、怖れと恥のために脳貧血の発作でも起りさうな危惧を覚えた。そして、万一、そんな場合に立ち至つたら、何んな弁明をしたら好からうか? などゝ、とても小心に気を揉みながら夢中で駅まで引き返した。
五
久保が、そんな思ひで、堪らなく憂鬱になつて、首垂れながら駅の入口にさしかゝると、
「もし/\!」
と呼び止められた。
久保は、飛びあがるほど仰天した。――振り返つて見ると、さつきの娘が豊かな微笑を湛へて、
「今は、ほんとうに失礼しましたわ。随分驚きになつたでせう!」
と好意に溢れてゐる様子で近寄つて来たのである。
そして娘は、キヨトンとして眼を白黒させてゐる久保の手をとつて、
「ほんとうに御免なさい。」
とあやまつたりした。
「ぢや、あなたは、やつぱし、あの川瀬美奈子さんだつたのですか?」
久保は悸々《おど/\》と訊き返した。
「あんまり突然で、妾、変になつてしまつて、うつかりあんなことを云つてしまつたのよ、堪忍して下さいね。――でも、直ぐに思ひついたので、慌てゝ妾も追ひかけて来たのよ。でも、あなたは、夢中で駈けるほどの速さで、あたしが、幾度も/\途中で、もし/\! もし/\! とお呼びしても、何うしても振り返つて下さらないぢやありませんか。妾、困つてしまつて、とう/\此処まで追ひかけて来てしまつたわ――」
「それは、何うも……」
久保は、安心だか、何だか、わけのわからぬ激しい目眩ひを感じて、今にも倒れてしまひさうであつた。
「喫茶店でもないでせうか、この近くに――?」
「妾、お茶なんて欲しくありませんわ。――歩きません?」
美奈子は、久保の腕をとつて散歩に誘ふのであつた。
久保は、夢のやうな気がした
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング