階段
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)験《ためし》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)姉はこれ[#「これ」に傍点]を
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\東中野まで
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一
川瀬美奈子――。
さういふ署名の手紙が久保に、はじめて寄せられたのは、三年も前のことである。久保は、手紙を書くのが不得手だつたので、まつたく返事を出したことはなかつたが(それに、何時のでもそれは返事を必要とする手紙ではなかつたからでもあるが――。)必ず一ト月のうちには一二度宛、自分の消息やら久保の作品に寄せる好意の言葉などを誌してよこすのが常だつた。
久保はアパートに住む若い生真面目な洋画家である。三年前の二科展覧会に彼の作品がはじめて当選して以来、彼の作品は年毎に画壇に異彩を放つてゐた。云ふまでもなく美奈子の初めての手紙は、その時の久保の作品に感激のあまり書き送つたものであつた。
だが、そのやうな類ひの文通は多くの場合、是非お目にかゝりたい、とか、お訪ねしても関はぬか、とかいふことになるのが常例なものだが、美奈子のそれには今日の日まで一言もそんな類ひの言葉は誌された験《ためし》がなかつた。
返つて此頃では久保の方が、美奈子の手紙に接する毎に「是非会つて見たい」といふ風な心地に駆られ出してゐた。だが、久保は、此方からそんなことを云つてやるのは、不見識のやうで、堪へずには居られなかつた。今年の夏、海辺で、弟が撮したのだと云つて手紙に封入して来た写真を見ると、美奈子の風姿は、あらゆる点で近代的の要素に恵まれた見るからに清新な明るいモダン娘で――久保の憧れに一致する女性型であつた。
よく、あんな風な娘が、斯んなに根気好く手紙などを書いたりするものだ! と久保は思はずには居られなかつた。
その日美奈子から来た手紙の一節に次のやうなことが誌されてゐるのを久保は、読んで微かに胸を震はせた。
「今日も妾は会場に行つて、あなたの作品の前に一時間も立ち尽しました。今日は三度目の見物です。――斯んな大胆な自惚れみたいなことを云ふのをお嗤ひ下さい。ですが、妾は(階段)の画面を斯うして凝つと眺めてゐますと、何故だか――」
「階段」といふのは久保の今年の制作の命題である。白い階
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