段の中程に一人の裸婦が、凝ツと正面を向いてたゝずむでゐる一見平凡な構図であるが、陰影を持たぬ久保の新手法が機械的構成美の上で目醒しい進境を示したものとして評判が高かつた。階段の突き当りに四角な窓があつて、其処からはビルヂングの尖頭が見えてゐる。
「何故だか、あの人物の容姿が、妾に似てゐるやうな気がしてなりません。あのやうな複雑な表象的画題に対して斯んな卑俗な考へを持つことに、何だか冒涜さへ感じますが、一度、そんな思ひに打たれてからといふもの、何うしても此の不遜な考へが妾の頭から離れません。」
久保は、この一節を読んだ時に悩ましさうに髪の毛をつかんだ。久保は、怖れに戦かずには居られなかつた。何故なら未だ直接言葉もかけたこともない美奈子であるにもかゝはらず、いつの間にか、その映影が深く自分の胸の中に喰ひ込んで、そして、斯んな結果が生じたのだと彼は信じたから。
二
間もなく彼は外出着に換へて、街へ出ると、慌てゝタキシーに飛び乗つた。
「お茶の水まで――」
と命じた。
そして彼は腕時計を見直した。
省線電車のお茶の水駅である。美奈子の家は壱岐坂の近くであつた。彼女は一週に二度宛午後一時前後にこの駅から電車に乗つてピアノの稽古に通つてゐる――もう大分前にそのことを美奈子の手紙で知つた久保は、屡々此処に来て彼女を待ち合せて、秘かに傍見してゐるのであつた。制作にとりかゝつてからも、続けてゐた。そして、彼は、架空的なつもりで一人の女性を描いたのであつたが、やはり、美奈子自身にまでも、それが彼女に似てゐると解るほどであつたか? 彼は幻の女性を描いたつもりであつたから、自身ですら、それが美奈子に似て出来上つたなどゝは決して思ひもしなかつたが……。
「さうです、あれは、あなたの映像です、私は夢であなたを描いたのです。」
久保は、今日美奈子に出遇つたら、臆せず斯う云つてやらうと決心したのである。そして、今迄も人知れず、此処に来て、あなたの姿を眺めてゐた。――等々のことも悉く告白しようと思ひきつた。
駅前で車を棄てると久保は、いつものやうに東中野までの切符を買つて(美奈子も其処で降りるのだ。)プラツトホームに入つてゐた。
いつもその頃は、未だ学校の退《ひ》ける少し前であつたから構内は殊の他人影が疎らであつた。久保は膝の上で、雑誌をめくりながら二三台の電車をやり過
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