見返した。
 久保は、何うして好いか解らなくなつて帽子を握りつぶしながら、アハヤ逃げ出さうかといふほどの心構へを抱いた。
「お人違ひぢやございません?」
 美奈子は素気なく答へて歩き出しさうになつたので、久保はもう恥のために弥々《いよ/\》堪らなくなつて、
「失礼しました。飛んだ人違ひをしました。」
 と云ひ終るがいなや、後も振り向かず元の道を小走りに駈け戻つた。――何といふ軽卒な真似をしてしまつたことだらう、あゝ! 若しかすると、あの娘は此方を不良青年と間違へて(当然だ!)交番に電話を掛けるかも知れない――久保は、後悔と同時にそんなことを思ふと、怖れと恥のために脳貧血の発作でも起りさうな危惧を覚えた。そして、万一、そんな場合に立ち至つたら、何んな弁明をしたら好からうか? などゝ、とても小心に気を揉みながら夢中で駅まで引き返した。

     五

 久保が、そんな思ひで、堪らなく憂鬱になつて、首垂れながら駅の入口にさしかゝると、
「もし/\!」
 と呼び止められた。
 久保は、飛びあがるほど仰天した。――振り返つて見ると、さつきの娘が豊かな微笑を湛へて、
「今は、ほんとうに失礼しましたわ。随分驚きになつたでせう!」
 と好意に溢れてゐる様子で近寄つて来たのである。
 そして娘は、キヨトンとして眼を白黒させてゐる久保の手をとつて、
「ほんとうに御免なさい。」
 とあやまつたりした。
「ぢや、あなたは、やつぱし、あの川瀬美奈子さんだつたのですか?」
 久保は悸々《おど/\》と訊き返した。
「あんまり突然で、妾、変になつてしまつて、うつかりあんなことを云つてしまつたのよ、堪忍して下さいね。――でも、直ぐに思ひついたので、慌てゝ妾も追ひかけて来たのよ。でも、あなたは、夢中で駈けるほどの速さで、あたしが、幾度も/\途中で、もし/\! もし/\! とお呼びしても、何うしても振り返つて下さらないぢやありませんか。妾、困つてしまつて、とう/\此処まで追ひかけて来てしまつたわ――」
「それは、何うも……」
 久保は、安心だか、何だか、わけのわからぬ激しい目眩ひを感じて、今にも倒れてしまひさうであつた。
「喫茶店でもないでせうか、この近くに――?」
「妾、お茶なんて欲しくありませんわ。――歩きません?」
 美奈子は、久保の腕をとつて散歩に誘ふのであつた。
 久保は、夢のやうな気がした
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