海棠の家
牧野信一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)脊《せい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あつけ[#「あつけ」に傍点]ない
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ところ/″\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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おそらくあの娘は、私より二つか三つぐらゐの年上だつたに違ひないのだが私には相当のおとなに見えた。兄弟はないらしかつた。
私の家にも稀には母親に伴れられて遊びに来たのであるが、よそに来ると私とさへ碌々口もきかずに母親の蔭で愚図ばかり鳴らしてゐたので、そこでの記憶は何も残つてゐない。あの家でのあの娘の記憶はところ/″\ばかにはつきり残つてゐるにもかゝはらず――。
はつきりとしてゐる気がしても、とりあげて見ると、泡のやうに忽ち消えて、何のとらへどころもない、シヤボン玉をつかむやうな記憶である――ほんとうにシヤボン玉の記憶が先に浮かぶのである――。
土蔵があつた。土蔵の壁は白かつたが、らく書きが一つもしてなかつた。私は、塀や壁に接するとらく書きに注意するのが癖だつた。
外では、風にこはされて面白くない、風がなくてもにげてしまふからあつけ[#「あつけ」に傍点]ない――「お蔵の中だと面白いよ。まつすぐにシヤボン玉があがつて行つて、天井は暗いからいつ玉が消えるのだかわからない。折角、キレイな玉をつくつても直ぐに眼の前でこはれてしまつては、がつかりぢやないの! だからあたしはシヤボン玉を吹く時はいつでもお蔵の中でするのよ。こはれないよ。しまつておけるわ。――どこかしらにかくれてゐる。それを探しツこをしない! 鬼ごつこ見たいに。」
彼女は、そんな意味のことを、私の記憶ではもつと/\芝居じみた言葉で熱心にいつたことを私は覚えてゐる。
――「あたしは、ひとりでもいつもそんな遊びをしてゐる。」
「厭だ。」と私はいつた。
「厭だつて! その遊びをしないとひどい目に合はすぞ!」
鋭く男のやうな言葉で突然彼女は打つやうに叫んだので、私はゾーツとして否応なく承諾したことを覚えてゐる。
隅の方に妙なかたちの朱塗の椅子があつた。娘は、それに腰をおろして、魂をこめてシヤボン玉を吹いた。
「どんなに騒いだつてかまやしないわよ、聞えやしないから――早く/\、早く梯子段を駈けのぼつて……お化けなんてゐやあしないわよ。意気地なし……」――「ほうら! もうどこかへ見えなくなつてしまつた。だけど、こはれちやゐないことよ。きつと、二階の隅にとまつてゐるよ。……早く、見つけておいでツていふのに。」――「天井裏にね、昔、おしおきに使つた竹の鞭があるよ。それは、触るとお爺さんに叱られるけれど、あんまり愚図々々してゐると、それを出して来てあんたをひつぱたくよ。」
*
私は、あの娘の笑ひ顔を想像することが出来ない――笑つた顔を見たことがない。痩せてゐた。そして脊《せい》が竹の子のやうに細長かつた。顔色ははつきりと青白かつた。私の町からでさへ何里も離れてゐる片田舎で、あたりは丘と麦畑ばかりのところにある家だつたが、娘の身装《みなり》は、その頃の私に芸者の子のやうだと思はせたほど派手だつた。
「もう帰らう、母さん。」と私は母にせがんだ。母は、娘の祖父と母と対座して、海棠の花が満開の庭を眺めながら、花見の御馳走になつてゐるのであつた。
「妙《たへ》は?」と娘の母は私にたづねた。私は、猫のやうにおびえて母の蔭に縮こまつてしまつた。――普段友達といふ者がないので稀に子供伴れのお客があるとあれ[#「あれ」に傍点]は夢中になつてしまふのである、どういふわけかあの子は乱暴でいけない、馬鹿な癇癪持ちでうつかり逆らふと相手の見境もなくどんなことをするかも解らない、だから決してよその子とは遊ばせないやうにしてゐる、この間などは夜中に夢中で飛び起きてはだし[#「はだし」に傍点]で、あの街道をまつしぐらに駈け出す騒ぎ――。
「その速いの速くないの!」と娘の祖父は、さういつて息をのんだ。――「あゝいふ子はうつかり叱ることも出来ないんです……そんなひどい怯え方をするんですからな――こつちがもうこはくてこはくて!」
幸ひその夜は月夜だつたからよかつたものゝ、それでも村中の騒ぎだつた、翌朝たづねて見ると何も知らないといつてゐる……。
「よく子供にはある病気なんだが、あれのは大分ひどすぎる!」
「そして――」と娘の母が続けた。「悪いことにはあれ[#「あれ」に傍点]は意地悪なんです、男のやうに乱暴な――玩具だつて満足には一ト月と保つものはありません。」
――「何かまた、意地悪をしたんでせう? 仕様がない、かんにんしてやつて頂戴ね、あれは少し病気なんですからね
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