はれた程の驚きに打たれた。
「ボクの方が――」と、彼女は云つた。「余外な面倒《トラブル》を感じなければならない。……いゝえ、計画《プラン》さ? どんな種類の?」
「英語をはさまれるとオレには、意味がわからなくなつてしまふんだよ。」
「ワタシが観光団員でなかつたことは、お前にとつては随分の幸福なのね。」
日本語が出来る、といふ程の意味なんだな! などと私は、いちいち反省して見なければならなかつた。
「それだつたらオレ達は、交際をしなかつたゞけで、オレは却つて……」
「惨めなプランを探られる思ひもせずに済むわけ……」
おやッ、と私は思つた。だが直ぐに、意味あり気に解釈しようとするのは惨めなわけだ、と気づいて
「ずつと向方《むかふ》に見ゆる島は、浮島といふんださうだ、三|哩《マイル》しかないといふ話だ。」
そんなことを説明した。この程度の話でないと私には無理だつた、――おそらく今迄の会話だつて彼女にして見れば、それ程呑気なものに違ひない、辻褄が合はなくなつた時に、考へて見るなんていふ面倒は止した方が得だ――私は、そんなに思つた。
「おゝ、さう。」
彼女は、熱心な眼で沖を眺めた。「今度あそこまで案内してくれない?」
「オレは船が嫌ひだから。」
「オレは、ボートは好き!」と彼女は、笑つた。私は、彼女がだんだんに私の気質を知つて来るやうな気がして愉快だつた。決して彼女の習慣に阿《おもね》らぬぞ――私は、そんなことを思つた。
「で、アナタのプランとは何でしたか?」
まだか! と私は、煩《うるさ》く思ひ好い加減にごまかさうとして、重々しく、
「相当――」と、云つた。どんなに言葉のうけ交しが変梃《へんてこ》なかたちにならうとも、向方も不思議に思はないのが私は、面白かつた。
「唖者にも夢がある、彼自身に許されたる夢がある――さういふ意味深長な諺《マキシム》が支那の昔にあるんだ、解る?」
私は、無鉄砲に好い加減なことを口走つた。彼女が、一寸キヨトンとしたのが面白かつた。唖子ノ一夢ヲ得ルガ如ク、只自ラ知ルヲ許ス――そんなウロ覚えの怪し気な古語を私は、偶然思ひ出したのだが、さう云つて馬鹿気た見得を切つた刹那に不図私は、妙な寂しさに駆られて、沈黙の洞窟に吸ひ込まれた。私は、横を向いて、くつきりと浮んだ遠くの青い島を見た。
私達は、出口が幻灯のやうに映つてゐる環魚洞のトンネルに入つて行つた。トンネルのほの暗さが私の心を救つた。彼女の靴の音と、私の重さうに引ずる下駄の音が、急に冴えた。――さつき彼女が、歩きながらもう少しで私を風景写真の点景人物に取り入れようとした時、私は慌てゝ――これは自分が交際した日本の或る青年なんだが、彼等は夏になると、斯んな帽子をかむり、斯んな服装で、斯のやうな素足で平気で往来を歩いてゐるのだ――彼女が後年国へ帰つた時に誰かに向つてそんな説明をしないとも限らない、そして若しその相手が彼女の亭主であつたら、此方こそ惨めなものだ――そんな邪推を回《めぐ》らせて、
「御免だよ、うつかりお前なんかに写真を撮られたひには、後で参考品にでもされるおそれがある。」などゝ云つて、巧に姿をかはし的をはづして、彼女に人物の無い風景写真を撮らせたのであるが、私は夏中それ以外の姿をしたことがない経木の帽子をかむり、ツンツルテンの浴衣を着て、腰には今にも輪のまゝにすつぽりとずり落ちさうな太い黒色のメリンスの兵児帯を憎態《にくてい》に巻きつけ、加《おま》けに棒のやうに貧弱な脚の先きには、武骨な庭下駄を突ツかけてゐたのである。――薄暗いトンネルの中に、彼女の靴の音と、重さうに引ずる私の下駄の音だけが、冴えた。
トンネルを出ると同時に、潮見崎の――と云はうか、環魚洞の――と云はうか、吾々は切られた山の中腹に出て、右の欄干に支へられて、脚下の断崖に眼を落すべく余儀ない環魚洞の出口なのである。
こゝで、このエピソードの冒頭に返る。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]と、彼女は叫んだのである。この時彼女が、思はず私の手を握つたといふことは、さつきは述べなかつたが、その彼女の感投詞で私が、甘い切なさを感じた時、(なるほど、云ふんだね、そんな感投詞を、とは思ひながらも――)彼女は、その冷い手で私の熱い手を握つたのである。
あゝ! 私は、それが今だに忘れられないのである。景色ではない時に、そんな機会が与へられなかつたことが永久に残念であり、そして私は、あの時の彼女と、あの風景とが、私にとつてたつたひとつの怖ろしい、楽しい夢なのである――と決めなければならないのが悲しい。
だが、手の平の温い人は、心はその反対である、とかといふことを多くの女は云ふ――といふ話を誰かゝら私は聞いたことがあるが、私の手は何時でも温いのである。そんな迷信を信じよう、私は、彼女に依つて英文法の実地研究をしたことを、今だに面白く思ひつゞける……。
私は、煙つた岬を眺めながら、手の平をそつと頬にあてゝ見た。――何といふ温い手の平であることよ!
「俺は、語学か、或ひは昆虫学の研究に今後没頭しようかしら!」
私は、ひよいとそんなことを思つたが、苦笑も洩らさなかつた。私は、口惜し紛れに途方もない、一種の自惚れを持つたのである。
「漁師の弟子や、畑の番人になるよりは、面白からう。」
そこまで私は、生真面目に思ひ及んだ時、急に馬鹿々々しくなつて、何処まで自分の心は不真面目なんだらう――そんな気がして、テレた笑ひを浮べ、思はず熱い手の平でポンと景気好く額を叩いた。
藤村は、未だ眠つてゐた。そして彼は、うつかり此方が聞き返したくなる程の、ウワ言を呟いだ。――もう[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]とは聞えなかつた、通俗的な寝言の形容詞通り、ムニヤ/\/\であつた。
[#5字下げ]三[#「三」は中見出し]
「おい、もう好い加減に起きないか! 好い天気だよ、今朝は!」
斯う云つた藤村の晴々しい声で私は、突然夢を破られた。――なるほど、飴色の陽《ひかり》が隈なく満ち溢れてゐた。開け放された窓から射し込んだ光りが、一杯私の顔にまであたつてゐた。――道理で、昏々と眠つてゐた私は、月から滾《こぼ》れ落ちる冷い滴が、乾いた喉をうるほすのに足りないで、水に浮んだ魚の姿で夢中になつてパクパクと滴を貪つてゐた。酒を飲んで寝るので大概私は、何かしら水に関する夢を見るのが常だつたが、この昼間の月の夢は、その滴が、折角|稀《たま》に落ちて来るやつを待ち構へて口に享《う》けて見ると、それは水ではなくて熱い酒なので情なかつた、さう思へばあの月は、色も怪しい……。
「あれは君、月ぢやないんだよ、俺が斯うして投げてゐるグラスぢやないか、ホラ御覧、これさ! 馬鹿だな、月だなんて……」
藤村見たいな男が、斯う云つた。見ると、その手の平には、ありふれたシャンパン・グラスがのつてゐた。
「なアんだ! 道理で……」
「もう一遍投げて見るぜ、今度はうまく飲んで見ろよ。」
「だが酒ぢや御免だぜ、グラスは好いがさつきのあれは、中味は君、オデン屋の酒のやうに生々しく熱かつたぜ。」
「グラスを月と見紛ふ奴には、それで沢山……」
……「おや、やつぱり月ぢやないか、君の方が嘘つきだよ、あゝもう焦れツたい、月だつてオデンだつて何だつて関《かま》はないから、早く水を呉れ/\/\。」
私は、そんなことを呟いだ。――さつき藤村に起されたと思つたのも夢だつたのか?
「おい、もう好い加減に起ろよ、出掛けようぜ。素晴しい天気だよ。」
藤村は、一寸焦れて私の肩をゆすつたので私は、初めて目が醒めた。――夢で思つた通りに綺麗な天気であつた。いや、さつき一度眼を醒まして、知らずにまた眠つたのだらう。
「随分、好く眠るなア!」
藤村は、あきれたやうに笑つた。
「口をあいてゐたらう。」
そんな気がしたので私は、先を越すやうに訊ねた。
「お互ひに馬鹿だね。」と、藤村は笑つた。
暫くぶりの好天気で私達は、一寸アツ気[#「アツ気」に傍点]にとられたやうだつた。――私達は、胸を拡げながら海辺を歩いた。古い徒手体操の号令に、前腕を平らに動かせ、と称ふのがあつた、そのやうに藤村は、両腕をギクギクと曲げたり伸したりしながら意気揚々のかたちで歩いた。
「斯うして俺達が歩いてゐる姿は、如何しても優等学生が勉強の合間に散歩に出たかたちだね……」
「前途有望な二人の青年……」
「止してくれ、気がとがめるから……だが、ひとつ俺達も一番改心して、何かの研究でも初めようぢやないか。」
ふざけたやうに、だが殊の他心は塞がれてゐる調子で藤村は、そんなことを云つた。
「…………」
云へば私は、何時ものとほり安価にふざけるより他に術がなかつた。
「暫く運動しなかつたので――山を見あげても、海を見おろしても、眼が眩む……二三日は散歩以外の遊びは出来さうもないね。」
「ぢやア空を見あげたら如何だらう!」
私は、そんなことを云つて仰山に青い空を見あげたりした。
「おい、止せ/\。斯んなところで……」
立ち止まつた私を藤村は、慌てゝ促した。私達は、山に迫られ、一歩《ひとあし》ごとに海が奈落になつて行く崖、潮見崎へ行く細道をつどうてゐた。暫くぶりの晴れた日の為だつたか、私達は、つい見慣れぬ風景に心を惹かれたのだつたらう、別段相談もしなかつたのであるが、ひとりでに脚がそつちへ向いたのである。
西側の山からは、いつもの音響が、その日は晴々しく響いてゐた。
トンネルに差しかゝつた頃はもう私達は、話もなくなつてたゞ漫然と脚をひきずツてゐた。
そこを抜けると私達は、決められた者のやうに欄干《てすり》に凭つて海を見下ろした。
「やア……」
私は、そんな感投詞を放つた。
「止さう/\。」と、藤村は私の袂を引いた。――雨あがりで濁つた水が、渦を巻き、岩にあたつて水煙をあげてゐた。
老婆がひとりで番をしてゐる掛茶屋が、直ぐ背後《うしろ》にあつた。前に来た時私は、そんなものに気づかなかつたやうだ。
茶店に腰を掛けて、前を眺めると、絶壁が空の半ばを覆うてゐる。曲りくねつた松が、水平線の上に突き出てゐる。見えないが、底の方で波が轟々と鳴つてゐる。トンネルの出口が、片眼のやうに凝ツと見ゆる、さういへば、この断崖は達磨の頭のやうな円味を持つて海に面してゐるのだ。
「ビールを飲むのも厭だよ、酔ひさうで……」
藤村は、達磨の頭上を仰いで、そんなことを云つた。まつたく私達が、蠅のやうに翅を休めてゐる位置は、達磨の肩にあたつてゐた。
「お婆さんは、此処に泊つてゐるんですか。」などゝ藤村は訊ねた。
トンネルの中から洩れる音は、筒をあてゝもの云ふやうに、散らずに響いて来る。下駄を引ずる音が聞えた。にぎやかな話声が洩れて来た。――私達は、黙つてトンネルの出口を眺めてゐた。そこを通つてくる風は特別に冷たかつた。
田舎からの湯治客らしい二人の老爺《としより》が、晴々しく、物珍らし気な微笑をたゝへて、そこから出て来た。彼等は、景色について愉快さうに話しあうてゐた。
そして私達の傍に来て、腰を降した。
若者が、悸《おび》えた虫のやうに息づいてゐるにも関はらず、彼等は飽くまでも明るく、享楽に充ちてゐた。
二人の老爺が、如何な話を取り交してゐたか、今私の記憶には何も残つてゐないのだが、勿論彼等は、暫らく振りの天気を有り難がりながら、こゝの絶景に就いて愉快な嘆賞の声を取り交してゐた。彼等の会話を覚えてゐて、今私がこゝに挿入することが出来ると、この蕪雑な私の文章にも多少のうるみが生じ、そして叙景の拙い私の筆の代りになるのだが、忘れてしまつたのだから仕方がない。――たゞ私は、田舎言葉のまゝで無造作に放つた老爺の明るい、一つの声が、今でも耳に残つてゐる。一人が、達磨の頭を見あげて、
「アノ、素《す》てッぺんから、転ばり落ッこッタラ、如何ヅラァなァ!」と、頓興な早口で叫んだ。それに惹かれて相手の者も、無造作に眼を挙げ、
「粉になッちまふヅラァ! ハッハッハ。」と、景気好く笑つたのである。
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング