こもつた長い説明に出遇つて辟易したりした。
 未だ、五年かゝるか、十年かゝるか先きの見込みはつかない、今では、山と人間の意地との戦ひになつてゐる。山にしたつて、ドテツ腹に風穴をあけられやうとするんだから、黙つてもゐられまい、水を吐いて防ぎもしよう、火も吐くであらう――そんな意味のことを議員は述べたりした。
 小雨に煙つてゐる山からは、一日に三つ位大きな音響が響き、その間にもいくつかの爆音が続いてゐた。
「だが、一朝事成れば、トンネルと共に吾が町も、一躍世界的の名所になる。」と、議員は云つた。彼が立ち去つた時藤村は、
「あの人は、今夜の演説の練習をして行つたに違ひないよ――屹度、あれと同じ調子でやるぜ。行つて見ようか?」と云つた。
「悪いから止さう。」
「君は、変だ。僕は、何もあの人を軽蔑して云つたのぢやないぜ。」
「そりや、僕だつて……」と私は、慌てゝ付け加へた。おそらく神経衰弱にでもなりかゝつてゐたのだらう、自分の存在は何処に置かれても邪魔なものなのだ――そんな途方もない消極的な妄想に駆られてゐたのだ。
「悪いからだつて……気障だなア。が、まア止さうよ、僕だつて――」
「…………」
「おい、変に瞑想的な顔をするのは止めて呉れよ。……あゝ、何しろ雨には敵はないね、この頃ぢや運動不足のせゐか、酒を飲んでもたゞ翌日気持が悪いばかりで、うつかりすると寝そびれてしまふなア!」
 藤村は、斯う云つて上向けに寝転び、天井を眺めて口笛を吹いた。
 この時、また山の音響が二つ三つ続けて鳴り渡つた。――藤村は、
「ヤツ!」と云つて、坐り直した。「それにしても、近頃はバカに頻繁だな。」
「一寸、好いぢやないか。」
 私は、細く低い声でそんなことを云つた。音響が、そんなものではビクともしない、といふ風にも見ゆるし、また、あゝ怖ろしい怖ろしい、凝ツと静かにしてゐよう「宿かり」のやうに、といふ風にも見ゆる煙つた町の多くの家々の上を、波のやうに走つて行く姿や、また何処かの部屋でも湯治客などが、トンネルを話材にしてゐるであらうことなどを私は、想像しながら、自分が細かい叙情的気分に欠けてゐることを今更のやうに物足りなく思つたりした。
「チヨツ! 厭だな。」
 藤村は、ひとりでそんなことを呟いて、その頭をコツンと拳固で叩いた。――「一体僕は、普通なら斯んなに驚き易い性分ぢやない筈なんだがね。」
 私は、僕も、いや僕達はこの頃たしかに神経衰弱とやらに陥つてゐるに違ひないんだよ――と、云ひたいところだつたが、うつかり調子に乗ると、決して笑ひたくない藤村が、一寸でも擽られるやうな思ひに打たれると縦令《たとへ》厭々ながらであらうとも、さういふ癖の彼は、何とか皮肉な文句でも思案せずには居られないで――いや俺は、一寸センチメンタルな芝居を演つて見たところなんだよ――などゝ云ふであらう、それが私には、何だか彼のために痛ましい気がしたのである。性来エゴイストである私が、縦令曲りなりにもそんな風に他人の感情などを憶測することなどは稀な話なのだが、私の心も酷く雨に祟られて、因循に歪み、後方《あと》へばかり逼つてゐたのである。――私達は、まつたく二個の木像に相違なかつた。パクパクと口だけは動かすが、それは無理な糸で操られながら余儀なくする不自然な働きに過ぎなかつたのである。
「不良児なんてものは、案外臆病なものなんだらうね、殊に斯ういふ種類の……」
 私は、そんなことを云つて、笑つて藤村を見たりした。
「斯ういふ種類のね……」
 藤村は、直ぐに私の言葉を奪つて、頤を突き出して私を差した。――「兎も角、一日も早く入梅が明けて呉れなければ、救からないね、いくら入梅だと云つたつて、斯うも毎日降らなくても好さゝうなものだが……」
「さうだなア……」
「晴れやアがつたら!」と、藤村は叫んだ。――「ウント、泳いでやるぞ、あゝツ!」
「雷が鳴らないうちは、梅雨は明けないんだつてね。」
「変なことを知つてゐやアがるな。――止してくれよ、雷なんて……」
 細かい雨が切《しき》りに降つてゐた。海には、今時珍らしく古風な二本マストの帆船が、この間うちからずつと滞留してゐる。この船の錨が巻かれ、帆があげられて走り出す光景は、一寸想像し難い姿で、凝ツと船は五月雨に濡れてゐた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 藤村は、未だ眠つてゐる。
 午少し過ぎなのであるが海の色は、恰で夕暮のやうである。――暫く寝床のなかで夫々天井を眺めながらつまらない話をしてゐたのだが、いつの間にか藤村は眠つてしまつた。見ると軽い鼾をたてゝ彼は、口を開けて眠つてゐた。この間私も藤村から、口を開いて眠つてゐたよ、と云つて冷かされたのであるが、今彼の寝顔を見ると私は、痛ましい憂鬱を強ひられた。おそらく彼も私のそれを眺めた時そんな気がしたに違ひないのだらうが、私を笑はせ鬱気を払ふために強ひてあんな冷かしを云つたのであらう、私の心には今はそれ程の努力もない……。
[#横組み]“Hurrah”[#横組み終わり]
 私は、ふとそんな声を聞いた。――私は、悸《をど》された。胸がひとつ不気味に鳴つた。振り返つて見ると藤村の寝顔には、変な微笑が浮んでゐる。彼が、口のうちで何かわけのわからぬ寝言を呟いたのであつた。――それを私は、そんな風に聞き違へて感じた、といふより、汽車の轍の音や時計の音が聞きやうに依つては様々な種類に聞かれる、あれと同じものだつたのである。例へば、コケコッコーでも、カック・ア・ダッダルドウでも※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]の声だらうし、太鼓の音を、ドンドンドンと吾々の幼時から云ひ現はし慣れてはゐるが、ラッバダブ・ラツバダブでも別段に反対の称《とな》へようもない――まつたく私は藤村の寝言の叫びを[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]と聞いたのである。
 おやツ! と、私は思つた。冷くて甘いものに一閃胸を撫でられた。
(……なアんだ! Flora のことか。)
 私は、その窓の下の細い道が一筋、ずつと右手の方に突き出てゐる岬の中腹を縫つて、指先で弧を描いた程に小さいトンネルの中に消えてゐるところまで視線を追うた。
(あの半町足らずのトンネルは、たしか環魚洞《くわんぎよどう》とかといふ物々しい名前の名所だつたな? あれをくゞり抜けたところが、潮見崎《しほみざき》? うむ、さうだ。――今度は未だ彼処には、一度も行つて見なかつたな。晴れたらひとつ藤村を誘つて、あの道をずつと先きまで歩いて見ようかな。)
 湾に添うて拾つて行くと、ゆるやかな螺状の道は次第に断崖の中腹にのぼり、環魚洞が頂点なのである、其処が岬の突端で道は断崖を指し、まさしく絶壁を見降してゐる――私は、その出鼻に立つて、背中合せの断層を見あげ、脚下数十丈の海を見降ろすことを想像すると、にわかに足の裏がムズムズして、身は忽ち鞠になる震へを覚えた。
 いつか藤村が、あの岬を指差して自転車の遠乗りを主張したのであつたが、その時も私は同じ震へを覚えて膚《はだへ》に粟を生じ、頑として車輪を反対の方角に向けた位である。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]
 さうだ、私は、Flora の感嘆の声を思ひ起したのである。――彼女が、さう叫んだ時私は、「なるほど――」と、彼女に微笑を感じたことを思ひ出した。――如何程物凄い絶景に出遇はうとも私には、とてもそんなに快活な声はあげられない。
[#横組み]“Hurrah!”[#横組み終わり]
「…………」
 私も、脚を震はせて石欄に凭り、脚下の怒濤を見降ろしたのであるが――なるほどね、そんな言葉は、初歩英文法の Iterjection の項にだけ引かれる非実際的な模範語かとばかり思つてゐたんだが……なるほどね、云ふんだね、こんな場合に――Hurrah ……。
 異人種との交際に慣れない私は、変に感心したのである。そしてもう可成り打ち溶けてゐる筈の彼女に、今更のやうに新しく、まんまと研究資料にしてやつたほどの白々しさを感じたのである。
 と、だけなら何の今頃思ひ出しても胸を塞がれる思ひもないんだが、同時にこの冷い語学研究生は、絶景に接して放たれた彼女の清らかな亢奮の詞《ことば》に、甘く胸を塞がれる肉感を覚えたのである、そしてたゞでさへ欄干から波を見降ろしてゐる私の五体は、硝子管に化してゐたのが、危く怖ろしい夢に酔はされたのである。――だから私は、今だにあそこの風景を想像したゞけでも眼が眩むのである。二年も前の話なんだが。
[#横組み]“Hurrah! Hurrah!”[#横組み終わり]
 私は、岬を望みながら秘かに故意《わざ》とらしくそんな声を繰り返して、胸の熱くなる思ひに打たれた、風景を消して、眼の前に彼女だけを思ひ描いて――。余程の無理をしないと彼女だけ[#「だけ」に傍点]は思ひ描けなかつた、渺たる私たちを環魚洞の風景が執拗に抱きたがつた。
 藤村は、微な鼾をたてゝ眠つてゐる。
 他人の寝顔を覗くなどゝは何といふ非礼な話だらう――私は、自分をそんな風に叱つた。
 ……(彼は、自分が近頃失恋をした相手の人の話などは殆ど聞さないが、間が濃密であればあつた程他人になど話す興味もあるまい。その反対の間であつた私は、稍ともすれば心境を誇張して、失恋の域にも達してゐない程のことを悲し気に吹聴する卑しい癖を持つてゐる。彼こそ斯うして眠りながら失うた恋の楽しい夢路を辿つてゐるに相違ない――夢を醒まさないやうに努めよう。)
 いつの間にか雨の密度が増したらしく、岬のあたりは一抹の滲みを引いて模糊としてゐた。――だが、私が二年程前、彼女とあそこまで初めての探勝を試みた日は、アジロ通ひのガタ馬車が円かなラッパの音を撒きちらしながら戛々《かつ/\》と走つてゐた麗らかな夏の朝であつた。
「三日間、ジュンと一処に送つたら病気になつてしまふだらう、ワタシは。」
「僕は、いつも云ふ通り散歩は嫌ひなんだよ、第一どんなに立派な景色を見ても、さつぱり面白くないんでね。」
「それは自分の国の見慣れた景色だから、さう思ふんではなからうか?」
「いや違ふんだ、僕は、嘗て旅行もしたことはないし、この町にだけは何遍か来たことはあるんだが、あの岬の先きまでも行つたことはないんだ、何時でも進んで留守居番だけを引受け通したよ。」
「あはれな案内者ですね。」
「おや/\、いつの間に案内者にされたのかね。唖の案内者を伴れて歩くなんて随分君も物好きな人だよ。」
「ホッホッホ……」
「だがね、唖だと云つてもあまり軽く見て貰はれると僕は、迷惑するんだ。」
 私達は、ともかく愉快な気持で、そんな他愛もない会話を取り換しながら夫々杖を曳いて、山を見あげたり海を見降したりしながら一筋の崖道を歩いてゐた。
「ほんたうに――」
 私は、半分ふざけた口調で、だが妙な力を込めて思はせ振りな笑ひを浮べた。相手の語調に合せる為に此方の言葉も気持も芝居でも演つてゐるほどなギゴチなさになつてゐるのが、反つて私の心を明るく無責任におどけさせて、婦人に対する羞恥心を紛らせるのであつた。若し私が、自分と同種族の美女と語らふ場合があるとすれば私は、大人らしい引込み思案で、非常な唖になる筈だつた。――彼女には私は、割合に大胆だつた。臆測、邪推、因循な遠慮、言葉の表裏――それらの不純粋に慣らされてゐた私が、彼女を軽蔑してゐるわけではなかつたが、それらの感情からは見事に救はれてゐる気がするのであつた。
「迷惑《トラブルサム》? ぢやお前の胸にはいつも何かの計画《プログラム》があるの?」
 彼女は、私のことを、ジユンと称んだり、アナタと云つたり、お前と呼んだり、時にはキミなどゝ云ふこともあつた。
「プログラムだつて?」
 うつかり私は、顔を赤くした。私は、決して彼女の前で英語を用ひたことがなかつた、用ひたくても不得意であつたし――。で私は、往々彼女の言葉の間にはさまれる英単語や英動詞を誤解して、あらぬ苦悶を強ひられる場合もあるんだが、この時は、お前は私に恋をしてゐるんだらう、ハッハッハ、と笑
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