藤村と私は、思はず眼を合はせてテレた笑ひを浮べた。たしかに私達も、そんな思ひに打たれてゐたに違ひなかつた。――私達は、自分達の不甲斐なき因循さが可笑しかつた。
 帰りがけには、私達は、平凡な悲観家から、いつものやうな平凡な楽天家に変つてゐた。肩を組み合せながら、トンネルの中を歩きながら、
「アッハッハッ……粉になつてしまふヅラァ――は好かつたね。」
「素てッペンから転ばり落ッこちる! も実にうまいね……ハッハッハッ」などゝ、凡そ他の誰にもこれ程な面白味は感ぜられまい、それだけに自分達は……それ程の心で、異様に亢奮して、笑ひこけ、同じ言葉を何遍も繰り返した。
「素てツぺん。」といふのは「頂上。」、「転ばり落ッこッたら。」といふのは「若しも転げ落ちたならば。」、「ヅラァ。」といふのは「だらう?」――夫々、それ程の意味の方言である、然も私達の育つた地方の野語であつたから私達には、説明の要なく老爺達の会話がその儘、胸に響いたのである。

[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]

 私の小説「環魚洞風景」は、以上で終りなのだが、六年経つた現在でも私達は、未だ同じやうな状態にゐることを一言附記しておかうか。
 私は、あの頃のまゝの姿で、今や追はれ追はれて、名前も知らなかつた東京のと[#「と」に傍点]ある郊外の茅屋《ぼうおく》に、仮屋して佗しい日を送つてゐる。たゞあの頃と違ふと云へば、偶然に私は一女を得て妻となし、一人の子の父となつてゐるだけのことである。結婚当座一年ばかり、六年前の続きで、あの町に住んだが、そして藤村と同じ境涯に陥つた宮田といふ旧友の訪問で多少の寂しさを救はれもしたが、今では、あの町の二つの家共々、父の多くの事業の失敗の揚句から人手に渡つてしまつたのである――そして私は、未だ実家へ帰ることを許されないのである。――現在では私は、父とは仲直りしたのだが、新しく母との不和が生じてゐたのだ。――そして私は、たゞ徒らにあの頃と同じやうに夢見るだけで、何の研究方針も定まらないのである。
 藤村のその後の動静は略さう。ほゞ私に似たものであるから。――私のやうなものに取つて、結婚生活が幸福である筈はない、そんな夢こそ見たこともないんだから今更驚きもしないが。だから別段に、未だ独りでゐる藤村が羨ましいとも思はない。
「××山のトンネルが水を吐き出して、工事が出来なくなつたんだつてね、――君、見たか、新聞?」
 この間、暫く振りで訊ねて来た藤村は、自分達に関係がある話のやうに、殊更にそんなことを云つた。
「気がつかなかつた。」
「だが汽車は、到頭あそこまで通じたんだね、行つて見ようか。」
「だつて今ぢや行つたつて、畑の番人になることも出来ないぜ。」
「ハッハッハ、困つたね。――ミス Fから便りがあるか。」
「去年、ミセスになつたよ。」
「がつかりしたか?」
「俺、毛唐人だけは真ッ平だよ。」
「チェツ! 厭に収まつた顔をするねえ、」などゝ彼は笑ひながら「こゝはつまり武蔵野か、たしかにその面影があるね――野原ぢや大丈夫だ。転ばり[#「ばり」に傍点]落つこちる心配がないから。」
「さうさう、あれぢや笑つたッけなァ!」と、私は膝を打ッて、心細く窓の外を眺めた。
 二人が大分酩酊して来た時に藤村は、私の耳に口を寄せて
「細君がゐると、俺何だか気拙くて、あの頃のやうになれないや。」と、さゝやいだ。
「俺も/\/\、――」
 私は、他人事のやうな顰めッ面をして藤村に賛同しながら、襖を隔てたそれしかない隣室に向つて、頤を突き出して稍暫くの間|憎々顔《にくにくがほ》を保つた。[#地から1字上げ](十四・六)



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「女性 第八巻第二号」プラトン社
   1925(大正14)年8月1日発行
初出:「女性 第八巻第二号」プラトン社
   1925(大正14)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
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